B級映画から教わる人生
『闇金ウシジマくんザ・ファイナル』
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』
『ヘルボーイ』
のネタばれをしてます。
私はB級アクション映画とか、一見、感動の「か」の字もないようなバイオレンス映画を観て、人間についてとか、人生について教えられたような気持ちになる事がよくあります。
人々がただ、「面白ければいいの」と思って、それ以外何も期待して観ないような作品の中で語られる人生についてのメッセージが感動的だった3作品について書きたいと思います。
『闇金ウシジマくんザ・ファイナル』
2016年公開
監督:山口雅俊(57歳)
脚本:福間正浩
あらすじ
ウシジマの闇金会社「カウカウファイナンス」に、ある日ウシジマの中学の同級生の竹本優希が現れ、借金を申し込む。「友達としてなら金は貸さない」とウシジマに言われ、カウカウファイナンスでの借金を断念した竹本は路上に座り込んでる所を、暴力と恐怖で貧困者を縛り、貧困ビジネスを営む鯖戸3兄弟の一人にスカウトされ、丸め込まれて、そこで社員として働く為に社員用施設に入る。そこで、他の人生の転落者達と共に収容所生活のような厳しい生活環境での労働を課せられるが、善良で美しい心根を持った竹本は、劣悪で弱肉強食な環境下にあっても、人間らしい優しさや思いやりをなくさない。ウシジマにとっても、竹本は唯一、暴力と無縁の善人の友達だった。中学時代、転校してきたウシジマをクラスのボスだった柄崎(今はウシジマの部下)に命令されてクラス全員がリンチした時も、竹本はそれに加わらず、後で柄崎に制裁されたのだった。
欲に支配され、金に群がる人間達。鯖戸3兄弟、ウシジマのライバル闇金屋の犀原茜、債務者を利用して汚い金儲けをする弁護士、そして、闇金「カウカウファイナンス」のメンバー達の、金をめぐっての壮絶な抗争。竹本は、その隙をついてウシジマの金、5千万を横取りし、鯖戸兄弟に働かされていた仲間達で山分けして人生をやり直す資金にしようとするが、仲間に裏切られ、その5千万を持ち逃げされて、ウシジマからその5千万の代償に、時給5万円で、ほとんどの人が1年未満で廃人になってしまう仕事をして返すように要求され、受け入れる。ウシジマは竹本を許したくなりながらも、最後は非情な闇金屋の立場を捨てず、竹本を”死の仕事”に送り出し、話は終結する。
ヤクザや闇金界の恐ろしさや人間の欲の醜さをはんぱないリアリティで描ききる『闇金ウシジマくん』シリーズ。そのファイナルの本作では、初めて、その醜い部分だけでなく、人間の善意と金の欲に屈しない美しい心を徹底的に対立させて描いてます。
竹本は優しくて弱いだけの男ではありません。少しの金銭的余裕があれば人は変われる、と仲間が再出発できるようにウシジマの5千万を盗み、ウシジマに言います。
「ウシジマ君、強欲は罪だ、この5千万があれば、20人の人間が立ち直れる。融資してくれないか、必ず返すから」
と。勿論、ウシジマは金の事で温情をかけるような方針転換はしません。そのうち、仲間が自分を裏切り、ウシジマの金を盗んだ責任を自分一人が背負う事になったのを確信した後、それでも竹本は微笑みます。
そして、ラストで”死の仕事”に向かうバスに乗り込む前にも又、ウシジマに言います。
「僕と君たちは人間の善意について賭けをしたんだよ、今は負けたけど、ほんとに負けたとは思ってない。僕は死なない、廃人にもならない、1年後か10年後か、戻ってくる。その時の僕を見せにくる。未来の君たちの生き方を見に来る」
出典:映画『闇金ウシジマくんザ・ファイナル』
ウシジマは決して酷悪非道な生き方をしてるわけではありません。職業こそ闇金という違法な仕事ですが、それで食っていくために、金を借りに来た人に、10日で5割の利息だという事を告知して金を貸し、貸した金額と利息をきっちり回収しているだけです。むしろ、欲や自己優先が当たり前の現代の人間社会の中では、まるでイエス・キリストがのり移ったかのように、自己犠牲をして善意の種をまき続ける竹本の方がずっと不自然な存在に感じます。どんな目にあっても善意の種をまき続ける竹本に、ウシジマは竹本の生き方の方が正しいのではないか、と疑い始めます。ラストは自分の生き方、自分の価値観に揺らぐウシジマの横顔の長写しで終わりますが、この表情がすごくいいです。ウシジマくんを演じてる時の山田孝之さん(34歳)は冷徹さを表現する為でしょうか、TVドラマのシリーズの時から、ずっと、常に無表情に徹してますが、このラストでは人間らしい苦悩や哀しみを堰をきってほとばしらせています。
ジョージアコーヒーのCMで、ある時は庶民的で暖かな笑顔の働くおじさん、ある時はコミカルなスパイと、いろんなキャラクターを上手く演じ分けているあの演技力。そして、このラスト……ほんとにこの人上手い。
Vol.2
2017年日本公開
監督:ジェームズ・ガン(51歳)
脚本:ジェームズ・ガン
あらすじ
前作でロナンを倒し宇宙に名前が知れ渡った『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』、ピーター・クイル、ガモーラ、ドラックス、ロケット、ベビー・グルートの5人はソヴリン人、アイーシャの依頼で彼らが重宝しているアニュラクス・バッテリー関連の施設を宇宙怪獣アビリスクから守る仕事を行う。見事にアビリスクを倒したクイル一行は報酬として前作において行方をくらましていたガモーラの妹であるネビュラの身柄を受け取る。クイルらはバッテリーを狙ってソヴリン人に捕縛されていたネビュラを惑星ザンダーに移して懸けられている報奨金を手に入れる算段だった。ソヴリンの惑星から宇宙船ミラノに乗って去ろうとするクイル達だったが、ロケットがバッテリーの盗みを行っていたことが発覚しソヴリン人の艦隊が襲い掛かる。ミラノは大破し、絶体絶命に追い込まれるクイル達だったがそこを小型の宇宙船に助けられる。
ミラノをなんとか別の惑星に不時着させたクイル達の前に降りた小型の宇宙船から現れたのはクイルの父を名乗るエゴという男とその世話係のマンティスだった。エゴは天界人という神に近い人物であり、数百万年という時を重ねて自身を惑星に進化させ、他の生命体を探すために人間の形態である分身を作って地球を含めた様々な惑星を旅していたという。当初はエゴの言葉を信用しきれなかったクイルだったがとにかくエゴ自身という彼の惑星にガモーラ、ドラックスと共に向かい、そこでクイルは天界人の能力の片りんを見せエゴが自分の父親であることを確信する。
一方、不時着したミラノの修理のために残されていたロケット一行の元にアイーシャからの依頼を受けて襲撃にきたヨンドゥ・ウドンタ率いるラヴェジャーズ一味が現れロケットは防戦するが拘束される。ところがそこでラヴェジャーズのテイザーフェイス率いる一派がヨンドゥらに反旗を翻す。彼らはラヴェジャーズの裏切者であるクイルに対するヨンドゥの甘い扱いに不満を持っていたのだ。膠着状態になったラヴェジャーズ一行だったがにベビー・グルートを唆して拘束を解いていたネビュラがヨンドゥを銃撃。自慢の矢のコントロール装置を破壊されたヨンドゥが敗北したことでラヴェジャーズはテイザーフェイス派の物になってしまう。ネビュラはヨンドゥを倒した礼として宇宙船を1隻受け取るとガモーラへの復讐のためにエゴの惑星に単身向かう。テイザーフェイスはヨンドゥ派のラヴェジャーズの一部のメンバーを抹殺すると拘束したヨンドゥとロケットを引き渡して懸賞金を得ようとするが、残っていたヨンドゥ派のクラグリンとベビー・グルートによってヨンドゥとロケットは脱出。ヨンドゥは試作の矢のコントロール装置を新たに取り付け、ロケット達と協力してテイザーフェイス派を粛清するとエゴの本性を知っていた彼はエゴの惑星に向かう。
出典:ウイキペディア
評論家きどりで生意気な事を言わせてもらえるなら、『GotG』(ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー)は映画としては2作目より1作目の方が面白いです。
でも、2作目には映画としてのできなんか、すっとばしてくれるジェームズ・ガン監督の”温かい心”がぎゅうぎゅうにつまっているのです。
この作品のラストで、スター・ロードの育ての親ヨンドゥは”息子”の命を助ける為に死にます。
同じ親としてこのヨンドゥの気持ちは100%共感できます。同じ状況に自分が置かれたら、怖いけど、辛いけど、同じ事をしたい。できるような親でいたいです。
そして血のつながりなんて関係ないです。子どもの時から自分の人生の多くを犠牲にして育ててきた子、大切じゃないわけないです。
子どもがいないジェームズ・ガン監督がそれを分かってる事が不思議ですが、義理の親子関係についてだけではなく、普遍的なメッセージとして、この血のつながりより濃い心のつながり(他人同士のガーディアンズメンバーの絆も含めて)というのが、本作でジェームズ・ガン監督が言いたかった事だと言われてます。
ガーディアンズのメンバーは、みんな、辛い壮絶な過去を抱えています。1作目では、グルートとスター・ロード以外は、みな人の事は信用しない、人助けや人を信頼するなんてとんでもない、と思ってます。私はマーベルコミックスを読んだ事もないので、グルートについてはどんな境遇で育ったのか分かりません。(映画の中で言われていた高貴な血筋という事しか)でも、スター・ロードについてはこの映画のキャラクターとして知るかぎり、8歳で孤児になり、宇宙に誘拐された。そして荒くれ者の海賊達の中で泥棒に加担させられながら育ち、普通にチンピラになった、と理解してます。でも、不良で、女たらしで、いい加減なチャラ男だけど、心はとても優しいのです。1作目では、宇宙空間にシールドなしで放りだされてほっておくと死んでしまうガモーラを助ける為に、2作目でヨンドゥがやったのと同じように、自分のシールドをはずし、ガモーラにつけてあげます。すぐにヨンドゥの宇宙船が自分とガモーラを回収しに来る事を予測しての行為ですが、人間不信の他のガーディアンズはもとより、この作品中の、宇宙で自分の命を守るために汗水流している他の登場人物達にはやれない自己犠牲です。又、ロナンが滅ぼそうとしているザンダー星の人々を助ける為に、わざわざ、勝率 12%の戦いに身を投じていくお人よしです。
私は、スター・ロードのこの善良さは義理の父ヨンドゥに心から愛され、可愛がられてきた”育てられた環境”が生んだものだと思います。(ただ、「食べちゃうぞ」みたいな子どもにとっては怖いだけの下手な冗談を聞かされて育ったので、愛されているという実感は薄い)
スター・ロードは他のガーディアンズのメンバーに比べたら、とても幸せだったのです。自分のために命を捨ててくれる人に育ててもらったのだから。
『GotG』Vol.2のラストでスター・ロードはやっとその事に気がつきます。
「自分はずっと、自分の本当の父親を、それが理想のカッコイイ父親であることを追い求めてきた。でも、本当の、そして理想の”クール”な父親はずっと自分の近くにいたヨンドゥだったんだ」
と。
「探しているものは近くにあるのだ」
と。
『ヘルボーイ』
2004年日本公開
監督:ギレルミ・デル・トロ
(53歳)
脚本:ギレルモ・デル・トロ
原作:マイク・ミニョーラ
(57歳)
クリーチャーデザイン:マイク・ミニョーラ
あらすじ
1944年、第二次世界大戦における敗色が濃厚であった旧ドイツ軍は、形勢逆転のため「ラグナロク計画」を実行に移そうとしていた。しかしブルーム教授を含むアメリカ軍がこれを阻止、計画の中心人物であったラスプーチンは魔界への入り口に吸い込まれていった。だが、長時間に渡って魔界への入り口を開けていた結果、地上に悪魔の赤ん坊が迷い込む。ブルームは全身が真っ赤なこの赤ん坊を“ヘルボーイ”と名付け、育てる事を決意する。
時は流れ60年後、ヘルボーイは超常現象調査防衛局(BRPD)のエージェントとして超自然的な存在と戦い続けていた。 ある日、博物館に強力な悪魔サマエルが出現。ヘルボーイは苦戦を強いられるもこれを撃退した。 その直後、ブルームは半魚人であるエイブ・サピエンが持つサイコメトリー能力により、ラスプーチンが復活した事を知る。ヘルボーイは事件を調べるうち、自身の出生の秘密と、巨大な右腕の意味を知る。
出典:ウイキペディア
正統派アクション映画や正統派ヒーロー物に興味がない私は、お恥ずかしい話ですが、ずっと、『ヘルボーイ』は主人公が、とてもいかつい男というだけの映画だと勘違いしてました。ゆえに食わず嫌いしていて、最近、初めてこの作品を観て、
「うわっ、これ、すごい好みだわ」
と、べた惚れしてしまいました。
主人公が、分かりやすい善人じゃないとか、ヒーロー映画のヒーローが全然ヒーローぽくない、とかってのに本当に弱いです。
『GotG』
にはまったのも、主役のスター・ロードが頼りなくて、いいかげんで、ガーディアンズのリーダーにはとうてい適してないようなチャラ男だから、という所から入っていて、
”普通じゃない”っていうのにキュンキュンしてしまう生癖の持ち主には、正統派超人物の『XーMEN』よりも、ずーっとこっちの超人達の方が魅力的です。
赤鬼のヘルボーイととってもキュートな半魚人エイブの組み合わせも最高のビジュアルなのに、二人が戦う敵側のいろんなビジュアルの怪獣、半人半怪物達の造形美を見ているだけで、豪華な映画を堪能しているという満腹感でいっぱいになります。
続編の『ヘルボーイ/ゴールデン・アーミー』(2009年日本公開)では、更にその造形美や特殊メイク、VFXに磨きがかかっていて、本当に、これ、10年も前の作品なの?と信じられない位凝ってます。
とか
とか
とか
とか
映画で怪獣たちのデザイン、背景までも担当したという原作者のマイク・ミニョーラ氏の才能に脱帽です。
ただ、そういう造形美にこだわるデル・トロ監督の凝り性がわざわいして、『ヘルボーイ』3作目は、膨大な製作費にNGがでた為、制作がおじゃんになったそうです。そして、デル・トロ監督やこの赤鬼のロン・パールマン(67歳)抜きで、別の筋の方で、『ヘルボーイ』がリブートされ、来年公開予定だそうです。
最近はやりのCGだらけのスタイリッシュすぎる映画になっちゃったら、つまんなそうだな、と思いますが。
ついつい『ヘルボーイ』の造形美の話になっちゃいますが、今回大事なのは、
この造形美の凄さだけで終わっちゃいそうなこの作品にも、個人的な感動ポイントがあった事でした。
『ヘルボーイ』のラストで語られるセリフ
「人格や個性は何で決まる?出生や育った環境なのか?いや、何を選択するかで決まるんだ。出生や環境でなく後の人生をどう生きるかで」
出典:映画『ヘルボーイ』
地獄からきた悪魔の子、ヘルボーイは元の運命に従って、人間を滅ぼして、この世を地獄に変えるのではなく、人間世界で、人間を悪魔の脅威から守り、人間らしく生きていく方を選んだ。運命に従わず逆の生き方を選んだ。
人はどんな人生も自分の意志で選び、変えていけるのだ。
『シェイプ・オブ・ウォーター』レビューから感じた男女の違い
『シェイプ・オブ・ウォーター』のネタばれしてます。
出典:シネマトゥデイ
前記事を書いてる時に、早く仕上げてUPしなきゃ、と他の方による『シェイプ・オブ・ウォーター』の感想を一切読まなかったのですが、記事のUP後、やっと、他の方のレビューをたくさん読む事ができました。賛否両論がある事はもとより、男性と女性で、この作品に対する感想が、真反対な傾向があるのでは?と感じました。
この作品を、「エログロ、気持ち悪い」とか、「あんな怪物に惚れるヒロインに感情移入できない」と書いている方々で、女性の場合は、作品選びの好みが、[醜い物、汚い物、リアル過ぎる物は見せない]方針のディズニー映画やハリウッドの正統的な大作映画、ヨーロッパの映像重視の美しい作品等が好きなんだろうな、と推測されるのですが、男性の場合は、普段、暴力描写や残酷なシーンの多いアクション映画を楽しんで観ていても、何故か、「この映画のグロさは耐えられない」「グロとロマンスが同居してるのが気持ち悪い」という感じ方をしてるように思います。
そのような感想を持つ男性の考え方を代表しているような表現だなと思ったのが、ブログ成功者(19万PVもあるそうです)の大学生の男性が「映画ブログ マイペースナイト」で書いているこの文章です。
さすがにオナニーが日課で、男性とまともな恋愛をしたことがなくても、何も怪物と生行為に及ぶのはないだろと。
こればかりは理解不能で、本作にときめく女性の心理が理解できません。
出典:マイペースナイト
[ネタバレ感想]
ただただ気持ち悪いだけのファンタジー映画
うーん……
この文章を読むと、イライザが、まるで、セックスや恋愛に飢えてたから、怪物と性行為に及んでしまったのだと軽蔑してるようにとれます。
当たり前ですが、女に男の気持ちが分からないように、男にも女の考え方って全然分からないんですね。
米国 のコメディドラマを観てると、時々、主人公やその女友達が、バックの中にバイブレーターを入れてるシーンがあるし、調べたら、米国のほとんどの独身女性がバイブレーターを持ってるそうです。
だから、米国の独身女性はみんなイライザと同じような事をしてるわけです。
上記の文章を書いたブロガーの方や同じようにイライザを「欲求不満の可哀想なおばさん」みたいなニュアンスで書いている方々はその事を知っててそう思うんでしょうか?だとしたら、米国の普通の独身女性はみんな可哀想だと思うんでしょうね。
私は、デル・トロ監督は性欲も当たり前にある米国の等身大の女性を描きたかったんじゃないかと思います。
ディズニーアニメの中のプリンセスや日本のアニメの美少女のような二次元の絵の中にいる女性ではなく。
そして、米国人女性として普通なイライザが半魚人と性行為に及んだのは、彼の事が本当に好きだからでしょう。何故そんなに彼の事が好きか、彼の中に直観的な共感とか、もう一人の自分を見てるように思うからでしょう。
女にとって大切なのは外見よりも中味なのです。
そして、同じ価値観を共有してくれてるか、なのです。
だから、『ピアノ・レッスン』(1994年日本公開 第66回アカデミー賞、作品賞、脚本賞、主演女優賞、助演女優賞受賞)のヒロイン、エイダは、お金持ちで名士だけど、エイダがピアノを大事にする気持ちを分かろうとしない旦那を嫌い、ピアノを弾く自分を愛してくれる(原住民のような見るからに卑しそうな)男と恋仲になるのです。
(以下は私が、一般的な傾向と推測してる事で、勿論、女性全員、男性全員がその通りだとは思ってません)
女性は外見だけでなく中味も本当にいい男がいたら、勿論、一番先にその男を選びますが、もし、外見はいいけど性格は悪い男と、外見は悪いけど性格はめちゃくちゃ良くて、自分と価値観が同じな男がいたら、半分以上の女性が後者を選ぶでしょう。
一方、男性は基本的にコミュニケーションしたり、共感しあう事を重視してないから、相手が、ただ見ていて綺麗ならそれで満足なんじゃないでしょうか?
だから、半魚人とイライザのラブシーンを見る時、男性はビジュアルだけ見て、気持ち悪いで終わっちゃう、又は、AVを観るような気持ちになってしまう為、ビジュアルが良くないと、気分が萎えちゃうのかもしれませんが(自分が女なので、全く推測です。間違ってたら申し訳ありません)、女性の場合は、画面に映っている姿よりも、「イライザ、良かったねー!自分のかたわれのような人と出会えて、その人と結ばれて」と、イライザの気持ちを考える事に集中してるから、ときめくのです。
ハリウッドの映画って、政治的主張を含まない大作映画や娯楽映画とは別に”ポリティカル・コレクトネス”な映画というジャンルがあります。こんなに民主主義が普及している現代でも、女性の地位の低さ、とか、マイノリティ、障がい者、LGBT等に対する差別、偏見は一向になくならない。それにたいする批判や抗議を含む作品は略してポリコレと言われます。
※political correctness
ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、日本語で政治的に正しい言葉遣いとも呼ばれる、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・障害者・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す[1][2][3]。
出典:ウイキペディア
この『シェイプ・オブ・ウォーター』もポリコレ、ポリコレと連呼されてます。
うちの57歳の旦那は、表面的には、特に生真面目でも凄い保守的でもない、何事もほどほどな普通のおじさんなので、LGBTの事どう思ってるのか興味がわき、聞いてみました。
私「もし、ゲイの人が身近にいたら、気持ち悪いとおもう?」
旦那「うん、やだね、そばにいてほしくない」
私「自分に何の被害がなくても?」
旦那「だって、気持ち悪いじゃん」
念の為、聞いてみました。
私「ゲイとニューハーフの違いって分かる?」
旦那「えっ、同じじゃないの?」
絶句してしまいました。
私はもし、会社の同僚が、ご近所さんが、サークル等の友人が、更に、息子がゲイだったとしても、全く気にならないです。変な話、息子がニューハーフになっちゃっても、それで自立して幸せに生きていけるなら何の文句もありません。むしろ、ゲイやニューハーフの方々の方が女性的な会話を一緒に楽しめる気がするので、ウエルカムです。
そんな私もリベラルすぎると思いますが、うちの旦那も今どき、古すぎないか、と思います。いや、ゲイとニューハーフの違いも分からなかった事は、古いというより、教養がなさすぎる、です。
旦那以外にも、私が目撃している、又は、また聞きした日本の普通のおじさん達に関しては、どうも、マイノリティや弱者とされる人々に対する偏見や不寛容は女性より強いように思います。
例えば、自分の子どもが障がいを持って生まれてきた時、いつまでも、その事を受け入れられない、自分が障がい児の親だと認めたくないと、苦しみ続けるのは、父親の方が圧倒的に多いそうです。(若い世代の、よりリベラルな価値観の中で育ってきた男性たちについては違うのかもしれませんが)
又、介護施設で、入所者の老人を虐待したり、家庭内で、介護度の高い母親や妻を虐待するのも男性の方が多いそうです。
2014年度調査では、介護施設の男性職員の比率は全体の21.9%なのに、虐待加害者の59.3%は男性職員だそうです。
女性職員は力がないから、という指摘もあるでしょうが、虐待は力がなくてもできますしね。
障がい者施設の入所者への暴力などで、告発されるのも、男性職員ばかりな気がしますが。でも、これは女性職員はあまり、障がい者施設で働かないとか、暴力をふるうような虐待は女性にはできないから、という理由もあるかも、ですが。
どうして、女性に比べて男性は弱者に辛く当たってしまう人が多いのか?
これは私の全くの独断、推測でしかありませんが、
原始時代から、男は狩りをして家族を食べさせたり、他の種族と戦ったり、強くなければ生きていけなかったので、「強くあれ」という価値観が一番大事だという遺伝子を内包しているから、弱い人に感情移入するのが、苦手なのではないでしょうか?
一方、女は自分自身も、体力的、経済的に弱いし、赤ちゃんや子ども等弱い者の世話をするのが仕事だったので、自然と弱者の立場に立てるような遺伝子を持っているのでは?
それに21世紀の今でさえ、男性は、弱肉強食の資本主義な社会で、独身者は自分の生活やキャリアを守る為、妻帯者は家族の生活を守る為に常に他人と戦ってかないとならないですものね。そして、勝つ為に弱い者の気持ちなんて考えてる暇もないでしょう。常に強い物や上を見て生きなければならない人間に「弱者の立場に立ってみろ」なんて、言うの、酷ですよね。
又、どこかで聞いた話ですが、生物のオスというのは、自分のDNAをこの世に残したい、という本能がとても強いそうです。なので、ストレートの男性は、ゲイとかレズとか、生殖に結びつかないセックスを象徴するような文化や思想が、理屈ではなく本能的に理解できないので嫌なのかもしれないな、と思います。
この記事を読んでくださった方の中で自分の事を悪く言われてるように聞こえ、気分を害した男の方がいらっしゃったらごめんなさい。
男と女はこんなに違うんだ、という事を書きたかっただけですが、憤慨された方で意見や反論をコメントしてくださる方がいたら、喜んで読ませてもらいます。
祝デル・トロ監督! がんばれ異形の者たち
おめでとう!
おめでとう!
おめでとう!
この作品の制作にゴーサインを出した
FOXサーチライトの方々
アカデミー賞の中継番組でゲストによばれてた映画評論家の町山智浩さん(55歳)。彼はデル・トロ監督と友達なんだそうですが、その彼が、『シェイプ・オブ・ウォーター』の作品賞受賞を受けて、
と、男泣きするのを見て、私も、もらい泣きしてしまいました。
デル・トロ監督(53歳)の監督賞受賞には誰も驚かなかったでしょうが、『スリー・ビルボード』に勝って作品賞取るなんて……
私はデル・トロ監督の作品は、『シェイプ・オブ・ウォーター』含め3作しか観てませんが、何故か、この人を含めたメキシコ出身の3人の監督、アレハンドロ・イリャリトゥ(54歳)、アルフォンソ・キュアロン(56歳)のスリーアミーゴスは応援したくなります。
キュアロン監督作品はそうでもないですが、デル・トロ監督の作品は私が観た『パンズ・ラビリンス』(2007年日本公開)『クリムゾン・ピーク』(2016年日本公開)そして本作(3/1~公開中)ともおとぎ話+哀愁だし、イリャリトウ監督のも、『21グラム』(2004年日本公開)や『ビューティフル』(2011年日本公開)、『レヴェナント』(2016年日本公開)とか、哀愁を帯びたトーンのが多くて、メキシコって太陽がサンサンと照りつける明るい気候の陽気な国民性のように思えるのに、何故そんな国からこんなに哀愁を帯びた作品を作るクリエーター達が出るんだろうなぁ……それはメキシコの映画学校の先生が言っていた「メキシコには92(数字はうろ覚えです)の異なった文化があり、メキシコ人は幼少から様々な異なった文化や価値観を受け入れて育つ」という事と関係があるのでは?と思います。一面的でない多様な芸術性や価値観。美男美女達の豪華絢爛な王道ストーリーしか作れないハリウッドの資本主義に反するセンスは世界中の映画ファンに歓迎されているんじゃないかって思います。
この『シェイプ・オブ・ウオーター』も、最初はハリウッドの大きな映画制作会社が、金を出すかわりに、「ヒロインをもっと美人にしろ」と言ってきたそうです。で、そうきたら、次は「この半魚人を実はハンサムな王子様でしたっていう風に変えろ」と言ってくるかもしれないと、警戒したデル・トロ監督はその大手制作会社と手を切ったそうです。
彼はディズニー制作の『美女と野獣』みたいな作品には絶対したくなかったそうです。だって、人は見た目じゃないよ、っていうテーマなのに、結局は見た目のいい王子様に戻るのはおかしいから。
そして、製作費を捻出するために自腹をたくさん切って、その信念を貫き通して作った、美男美女がでてこないロマンス映画がアカデミー賞の、ハリウッドの価値観の最高峰に立ったのです。監督の友達の町山さんじゃなくたって泣きますよ。
という題名もとても凝ってますよね。『美女と野獣』みたいなそのものずばりの野暮な表現ではなく、『水の形』という題名の中に、
「愛は、水のようにどんな形にもなる」
「水の形のような目に見えない物の中にある美しさ」
を意味しているそうです。
以下、部分的なネタばれ付き 感想です。
監督:ギレルモ・デル・トロ
脚本:ギレルモ・デル・トロ
ヴァネッサ・テイラー
あらすじ
1962年、アメリカとソビエトの冷戦時代、清掃員として政府の極秘研究所に勤めるイライザ(サリー・ホーキンス)は孤独な生活を送っていた。だが、同僚のゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)と一緒に極秘の実験を見てしまったことで、彼女の生活は一変する。 人間ではない不思議な生き物との言葉を超えた愛。それを支える優しい隣人らの助けを借りてイライザと“彼”の愛はどこへ向かうのか……。
出典:Filmarks
半魚人(ダグ・ジョーンズ 57歳 半魚人の姿なので本人とは分からない)と恋に落ちる人間の女性、40歳の掃除婦、イライザ(サリー・ホーキンス 41歳)は初めて半魚人を見た時から全く彼を恐れませんでした。いくらイライザが捨てられた孤児だから孤独で、口がきけない障がい者だから世間でつまはじきされているからといっても、突然、まじかであの半魚人を見て、あの鳴き声を聞いたら怖がるでしょう……と最初は不自然で仕方ありませんでしたが、途中で、ああ、これは、イライザも彼と同じような怪物="異形の者"のように、人々から見られて生きてきたという事を象徴してるんだなと感じました。(正確には異形ではなく"異態"と言うべきでしょうが)
イライザは言います。
「言葉を喋らない彼が私を見る目は、口がきけない不完全な私ではなく、ありのままの私を見ている目だ」
と。
そんな目で見てくれたら、怖いなんて、全く思いませんよね。
この作品は大人のおとぎ話だと言われてますが、この2人の恋はまさにそうです。
だって、日々、大人として地に足をつけて堅実に生きているけど、自分のかたわれのような人に出会えて、そ の人と人生を共にできたらいいな……と思った事ありませんか?
イライザのお隣さんで親友でもあるう老画家ジャイルズ(リチャード・ジェンキンス 70歳)も半魚人を異形の者、得体のしれない不気味な者という視線では見ません。この老画家もゲイとして異形の者とみなされて生きてきたからでしょう。又、芸術家として「何て美しい生物なんだ…」という感性で彼に接します。
イライザの同僚ゼルダ(オクタヴィァ・スペンサー 47歳)も半魚人の事を恐れたり、さげすんだりしません。イライザも黒人のゼルダも普通の人々が寝静まった夜中の間、極秘研究所でエリート白人達が汚した床やトイレの尿をふいたり、汚い物を始末する仕事をして生きている片隅に追いやられた側の人間だからでしょう。
この脚本て、本当に上手いよなぁ、と思うのは、半魚人の命を助けて海に逃そうとするイライザ達と敵対するエリートで、名声や出世が大好きで失敗する事が大嫌いな軍人ストリックランド(マイケル・シャノン 43歳)が、何から何までイライザ側の人々とは正反対な事です。気持ちがいいくらい正反対です。なので、憎むべき大悪役なのに、感情移入できちゃいます。この作品は誰一人として感情移入できない人はでてきません。そういう所もまた凄いです。
舞台は1962年のアメリカ。女性の地位も低く、黒人への差別も露骨にあった時代。デル・トロ監督によると、この時代、アメリカ人というと白人を指しその他の人種は"The Others"と呼ばれてたそうです。だから、白人以外は政治的な発言権もない為、黒人やラテン系の人々が、もし、[公にできないような事]を見聞きしても告発なんてできないだろうという推察により、この極秘研究所の清掃員達に黒人やラテン系の人々が雇われているんだそうです。
障がい者への差別も、今の時代の比ではなかったでしょう。LGBTへの偏見も、(町山さんの解説によると)その時代、警官が理由なくゲイ達をボコボコに殴っても許されたくらい酷かったそうです。
そして"The Others"ではないアメリカ国民の間では、国を挙げての共産主義国への嫌悪やライバル心が浸透していました。
そんな時代に、白人の男として生まれ、出世や名声を望み、それを手に入れる為に自分を叱咤激励して、必死に階段を昇ってきたストリックランド。愛読書は当時ベストセラーになっていた『The Power of Positive Thinking』です。トランプ大統領が信望している本だそうです……上手い!上手すぎる……
そんなストリックランドにとって、未開のアマゾンで発見された半魚人はたんなる怪物、研究材料で、人間扱いするなんてとんでもない。米国の利益と自分のキャリアの為に、研究材料として、殺して解剖する事に何の罪悪感も感じません。イライザやゼルダを「尿を拭き、糞の始末をする奴ら」とこれも又、人間として見てません。
それなのに、グラマーでも美人でもない、口もきけない障がい者と見下しているイライザに、心の片隅で惹かれてしまうのです。イライザを抱いて、喘ぎ声を聞いてみたい、と。明るくて力強くて地位の高い物に憧れ、手に入れる事が人生の目標なのに(彼の上品で若くて美しい白人美人の奥さんはそういう価値観の象徴のようです)その一方で、真反対の暗くて弱くて卑しい(と彼が思っている)物に強く興味をもつのです。もしかすると、イライザの事を家畜のように痛めつけて、その姿を見てみたいのかもしれません、半魚人の事も、電流の通った棒で殴って虐待してましたから。自分よりはるかに下等な生物だと思っている半魚人やイライザの自分を見る目の中に、軽蔑の色を感じて、悔しくて憎くて、だから"そいつらを征服した"という気分を味わいたいのかもしれません。いずれにしろ、イライザに強い執着がある事に変わりはありません。この人間としての不思議さ、奥深さを含めて、ストリックランドに非常に生々しい人間臭さを感じて、軽蔑する一方ですごく理解できます。
人間らしい、本当にいい悪役でした。私はアカデミー賞助演男優賞候補は老画家ジャイルズではなくこのストリックランドの方がずっと敵してたと思います。
本当に、本当に深くて、色んなメッセージ、色んな価値観を含んでいる『シェイプ・オブ・ウォーター』。本作が作品賞を取った事は他の意味においても、とても大きな価値があるようです。
怪獣映画でも作品賞が取れるんだ、もう世界はそこまできたんだと。
そして変わり者、変わった物が好きな人達はこれからは胸を張って、変わった物への愛情をきわめたり、デル・トロ監督のようにその愛情を仕事に注げば、それが、いつか大勢の人に支持され、認められる、そんな明るい楽しい可能性が大きく開けたんですね。
そして、「"異形の者"とされてきた人々、変わり者も、障がい者も、マイノリティも、移民も、この世界の上で胸をはって堂々と生きていいんだ、そういう世界にしなきゃいけないんだ」と、あの見るからに優しそうなデル・トロ監督が伝えてくれてる気がします。
おまけ
のマーティン・マクドナー監督、アカデミー賞では冷遇されてましたね。
脚本賞だけは確実だと思ってましたが、黒人差別を肌で感じて生きてきた米国人が自国の問題を描いた『ゲット・アウト』の監督ジョーダン・ピールに横取りされてしまいましたね。
深読みしちゃって、
「外国人の貴方(マクドナー監督は英国人)に、自国の抱える人種問題とか、分断とかの深い悩みをそんな簡単に分かったような風に描いてほしくない」
と思われたのかなあ……なんて考えるとちょっと面白かったです。
この監督に感動させられるとは……『スリー・ビルボード』
本当に本当にすみません。
どうしても言いたい気持ち、言いたい部分があるので、
『スリー・ビルボード』のネタばれしてます。
去年9月のトロント映画祭での観客賞(グランプリ)受賞以来賞レースの話題を席巻している『スリー・ビルボード』の監督、脚本家マーティン・マクドナー(47歳)の事をウイキペディアで調べたら、名戯曲家でもあり、
[現代アイルランド文学において最も重要な作家のひとりとみなされている]
と書かれてたのでどんな凄い人なんだろう、と舞台は観れないので、前2作の映画をAmazonビデオとNetflixで観ました。
『ヒットマンズ・レクイエム』
2008年イギリス公開(日本ではDVDスルー)
監督・脚本:マーティン・マクドナー
2013年日本公開
監督・脚本:マーテイン・マクドナー
マーティン・マクドナー監督の脚本は、人物がこの先何をするか全く予想できないか、予想を100%裏切る事をするかのどちらかです。
そして本当に風刺が上手いです。
『セブン・サイコパス』はハリウッドの脚本家と俳優であるその友達を中心に話が進むのですが、
脚本家のマーティが「セヴン・サイコパス」という題でシナリオを書くように依頼されて、脚本の構想として自分が考える最高にグロいサイコパスのストーリーを友人のビリーに語り、
「でも、そんな話はもう書きたくないんだ」
と言うと、ビリーが
「『セブン・レズビアン』に変えたら?全員が身体障がい者で性格良くて、二人は黒人」
と答えたり、
「映画は女は殺せても動物は殺せないから」
と言ったり、今の映画製作に関しての痛烈な皮肉がてんこ盛りです。
最近の、特にハリウッドでは映画はLGBTや有色人種への差別撤退をかかげないといけなかったり、動物や子どもの虐待には非常に敏感ですが、5、6年前からもうそんな風潮だったんですね。
『ヒットマンズ・レクイエム』でも、殺し屋達が鉄の掟として[子どもは殺さない]と決めてます。初心者の若い殺し屋が間違って、暗殺者と一緒に子どもを殺してしまった事を悔いて自殺しようとするシーンまでありますが、大人は女でも老人でも誰でも殺していいけど、子どもだけは殺してはいけない、という価値観がすごく不思議で、殺し屋達がそれに振り回されるのが、滑稽にみえます。子どもの虐待に過剰に敏感なメディアや政治家への風刺なのかもしれないと思いました、というか絶対に風刺でしょう……でも、観ている時は、鈍い私はそれに気がつきませんでした。
作品の大きなテーマ(子どもを殺す事への罪悪感)そのものが風刺になってる……本当に曲者だなあ、切れ者だなあ、と唸りたくなります。
この人が同じように風刺の上手い北野武監督を敬愛してる、というのもうなずけるなあ、と思いました。暴力多い作風も同じですね。
マクドナー監督はウイットや風刺の上手な国民性の国、イギリス育ちですが、その洗練されたヒューモアセンスがお家芸の国の人に尊敬される日本人の北野監督も凄いなあと思います。
この2本とも、本当におしゃれで上手い脚本なのですが、ただ、どちらにも同じ人間としての共感や感動は引き出されません。『ヒットマンズ・レクイエム』は殺し屋の人達の話で殺す行為が中心ですし、『セブン・サイコパス』はもっと殺伐とした作品になってます。題名通り異常な人ばっかり出てきて、残酷な殺人シーンが、ゆるーくオフビートに続いていくのですが、何故かサイコパス達がユーモラスでセリフの一言一言に風刺が効いているせいでしょうか、ただの"アクション中味ない系”の映画じゃない、人生とか人間について、何か教わったような気がしてしまいます。
そんな、バイオレンス映画を作っても、ただの暴力映画に終わらないマクドナー監督が、とうとう、暴力に訴えない、人間の心のひだを丁寧に描いた”人間ドラマ”を完成させてくれました。
2018年2月日本公開
監督・脚本:マーティン・マクドナー
ロッテントマト トマトメーター 93%
トロント映画祭観客賞受賞
ゴールデングローブ映画ドラマ部門
作品賞受賞
脚本賞〃
主演女優賞〃
全米映画俳優組合賞キャスト賞受賞
あらすじ
娘が人通りのない街はずれの道路ぞいでレイプされ残酷な方法で殺されて9か月たっても犯人逮捕の兆候がない事にいきどうりを感じているシングルマザーのミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)がその現場近くの3枚の広告用看板に5,000ドル払って警察の無能を責める内容のメッセージ広告を貼りだす。
その3枚目の看板が住民に慕われ同情されている(膵臓ガンで余命わずかだ、という事を何故か住民みんな知っている)ウイロビー署長(ウッディ・ハレルソン)の責任を問うような文面になっている為、ミルドレッドは町の住民のほとんどを敵に回すような立場にたたされるが、1mmたりともひかない。ウイロビー署長に心酔しているダメ警察官のディクソン巡査(サム・ロックウェル)はミルドレッドが許せない。ミルドレッドの娘の事件とミルドレッドの行為をめぐり、ディクソン、ウイロビー、そしてこの3人の家族と町の住民達がそれぞれの思いを交錯させていく。
ネタばれ付き感想
米国では若い娘がレイプされ殺される事なんて日常茶飯事なんでしょうか?
母親としての犯人逮捕への悲痛な願いから貼りだした広告看板を同情されるどころか、みんなが敬愛する病気の警察署長への心ない行為だと住民達から責められる、でも、嫌われても嫌われてもひるまないのは、ミルドレッド本人の性格からなのか、何か理由があっての事なのか、考えながら観ていると、彼女も、可哀そうな母親という一方的な被害者とは言えないのでは?という事が分かってきます。
事件当日、「出かけて夜帰ってくるから車を貸して欲しい」と頼んだ娘に、
マリファナ(ミズーリ州では違法)をやったお仕置きのつもりで、「謝るなら夜帰ってくるのにタクシー代はあげる、でも車は貸さない」と言うミルドレッド。怒った娘が言い返してケンカになってしまいます。逆上して「歩いて帰ってこい、車は貸さない」と言ってしまったミルドレッドに更に逆上した娘が「私がレイプされてもいいのね?」と言い返すと、ミルドレッドも売り言葉に買い言葉で「レイプされてもいいわ」と答えてしまったのです。ケンカ別れしたまま外出した娘は結果、歩いて帰ってくる途中で被害者になります。
これを知ると、
「なんだ、あんたにも責任があるじゃないか!」
とそれまでの可哀そうな母親感が急速に冷えていきます。
娘を持っているお母さんなら、たとえ、ケンカして一時はカッとなっても、米国の田舎道みたいな治安の悪い所を夜一人で歩かせたりはしないわ、と思うんじゃないでしょうか?娘を持ってない私でも思うのだから。 娘を持つお母さんで、「そんなことないわ!」という意見の方は反対意見でもコメントしてくださるとうれしいのですが……
(期待すると辛いので期待はしないぞ)
ですから、ミルドレッドの行動には、後ろめたさからくる自分自身への怒りも含まれてるのだなあと感じます。
でも、主人公がただの可哀そうなだけのお母さんじゃない所がマクドナー監督の人間観であり、名劇作家と言われる所以でもあるのではないか、と思います。
人間の幾重にも重なる心のひだ、誰にも外見からは想像できない複雑な感情がある。マクドナー監督の脚本は登場人物が次に何をするか分からないのが魅力なんですが、それこそが予定調和で作られたのでない生の人間を観ている感覚です。
この作品のチラシ。
荒涼とした淋しい田舎道に立っている3枚の広告看板を写してるだけの写真が実にいいです。
いろんな方のレビューで語られているように、3枚の看板がミルドレッドとディクソン巡査とウイロビー署長を比喩し、看板に表と裏がある事が人間にも表と裏がある事を比喩しているのでは、と私も思いました。
更に表と裏というのは、暴力や憎しみに対する愛や許しという対極の物を比喩してるように思えてなりません。
ゆえに、前2作はおしゃれでおもしろいんだけど、共感できる普遍性は全く感じなかったですが、今作では、とうとう登場人物に共感できる、感動できる、観た後、心に残る作品になってました。
今まで暴力に形を借りて人間を描いてきたこの作家が暴力の反対側、人間の優しさや許容を強調する展開に舵をきったのです。
人種差別主義者で短気なダメ警官、警官としても人間としても、誰からも尊敬も頼りにもされなかったディクソンがウイロビー署長の暖かく愛情のこもった助言をもらい、自分が暴力をふるって大けがを負わせた相手から予想に反した慈悲の心を見せつけられ変わります。警察官魂を取り戻し、ミルドレッドの娘の殺害者を挙げる為に容疑者にボコボコに殴られ、血だらけで息も絶え絶えになりながら容疑者のDNAの入った皮膚辺を証拠品袋に入れるシーンでは、心の中で「がんばれー!がんばれー!」と叫んでいました。
この大きな人間的成長で感動させられるので、最初から最後まで、はでな成長は起きない主役のミルドレッド(小さな成長はあり)よりディクソンというキャラクターの方に主役がかすんでしまうような存在感がありました。
ただ、観終わって余韻が覚めてから考えると、ディクソン変わりすぎじゃないの?たとえ敬愛する人の金言に感化されたとしても、憎まれて当然の相手から優しくされたとしても、人間てあんなに急に変われる?と何か喉に小さな骨がささった感触が湧いてきましたが、そこは、感動させてくれないマクドナー監督が感動できる作品を作ってくれたという点で多少のご都合主義は帳消しにしたくなります。この人はそれ位魅力的な作家です。
アカデミー賞ノミネートで、作品、脚本、主演女優賞、助演男優賞、編集賞など、名だたる所に名を連ねているなか、何故か監督賞だけノミネートされなかったのは、アカデミー会員達のマクドナー監督への嫉妬じゃないか、と思う程です、又はこれほど素晴らしい脚本だったら誰が監督をしようが、優れた作品になるのは当たり前だと感じるからでしょうか。
個人的疑問
広告の看板を持っている会社から契約書の取り決めにより最初に払った5,000ドル以外に、更に5,000ドルの広告料を要求されたミルドレッドは途方にくれます。5,000ドルって55万円前後ですよね?日本人の感覚だと60万位の貯金なら労働者階級の人でもあるんじゃないか、と思ってしまいますが、ミルドレッドはないんですよねぇ、最初に払った55万円位も離婚した旦那の残していった車を売って作っています。これは日本と同じようにミルドレッドがシングルマザーだから、いっぱいいっぱいの生活で貯金なんてないからなんでしょうか?
それとも、米国の田舎の労働者階級の白人はシングルマザーでなくても、60万円程度の貯金もないのが普通なんでしょうか?
アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞ノミネートの3作品
今年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞にノミネートされている作品を3本観ました。
『ストロング・アイランド』
『イカロス』
『アレッポ 最後の男』
ネタをばらして感想を書かないと何か説得力に欠けるような気がして、
今回もネタばれ付きの感想です。すみません。
『ストロング・アイランド』
2017年 Netflix配信
監督・ヤンス・フォード
米国、ニューヨークのロングアイランドの黒人専用地区に住む家族の、殺人事件に巻き込まれ、兄を白人に撃たれて殺された女性監督がほぼ全編を身内へのインタビュー内容で作ったドキュメンタリーです。
事件そのものは1992年に起きた。25年前の事件を何故今になって作品に?と不思議に思ったのだけど、逆にその当時の事を今は亡くなっている母親が鮮明に語っている映像を彼女が今までずっと保管してきたという事に計り知れない重さを感じました。
彼女の兄ウイリアムがトラブルで揉めてた白人に銃で撃たれ、公平かつ厳密な捜査なしに殺人事件を正当防衛で不起訴にされたのですが、妹が熟読した検視報告書の内容や、現場にいて、ウイリアムが撃たれる瞬間以外の白人とウイリアムのやり取りを見ていた友人の証言からはとても正当防衛とは思えません。不起訴が決定された大陪審の審査に出席した母親によると、起訴か不起訴かを決定する陪審員は23人全員白人で、母親が証言台で話す事を、雑誌を読んだり、パズルをしたりしながら聞いていた、というよりも聞く気もない感じだった、殺されたのが黒人だったゆえに。
この事件については被害者側の証言のみで作られてるので内容が100%真実とは言い切れないのかもしれませんが、この大陪審についてだけでも明らかに差別だと思いました。恐ろしいのはこの行為を差別してると気がつかない、又は差別とは分かっていても、それを異常な事だと思わない白人の審判員達、警察関係者達です。
自分達と違う民族を見て、自分達より劣っているという感覚は持たない人が大多数の日本人にとって、この「無意識に差別したくなる」気持ちは理解できない感情だと思います。
近年、日本でヘイトスピーチが問題になっていますが、例えば韓国人にたいするヘイトスピーチは個人的には、あれは今韓国との間で政治的な問題、領土の問題でけんかしてる状態なので、そこからくる憎しみで起きるのでは、と思います。現代の法治国家では許されない行為ではありますが、動機は理解できる気がします。
日本人が、どっちの民族が優れてるか、どっちが上か下か、という意識を持たないのは単一民族で構成され、何故か無宗教な人ばかり、土着の宗教は、他宗教に寛容な仏教と神道で宗教間の対立もなく、それによる憎しみ合いもないからではないでしょうか?
私は世界中の争いの半分は宗教が原因だと思っています。
現在でも人々の生活を差別し、下層の階層に生まれた人々を苦しめているインドのカースト制度もヒンドゥー教の教えからきています。
『イカロス』
2017年 Netflix配信
監督:ブライアン・フォーゲル
スポーツ競技におけるステロイド使用に関するドキュメンタリー。監督はブライアン・フォーゲル。自転車選手でもあるフォーゲルは、オートルートのトレーニング中にパフォーマンスをあげる薬物を使用することを決め、アンチ・ドーピング検査をパスできるかを試みようと考えた。フォーゲルは、当初 UCLA のオリンピック分析研究所の創始者であるドン・カトリンにアドバイスを求めた。カトリンは、周囲からの評判を懸念し、実験への関与はよくないと考えた。 代わりにロシア反ドーピング機関所長のグリゴリー・ロドチェンコフを紹介し、彼がドーピングシステムの管理に協力した。ロドチェンコフの手を借り、フォーゲルはホルモン注入と検査時に利用する尿サンプルを使ったシステムを開始した。
フォーゲルとロドチェンコフの関係は短期間で近づいた。実験中にはロドチェンコフが、ロシア選手がパフォーマンスを向上させる薬物を検出することなく使用するのを助けるために独自のシステムをロシアに持っていたことが明らかになった。実験の最中、2014年ソチオリンピックにおいて、ロシアによる国家主導のでドーピングプログラムが実施されたことがドイツの公共放送によって報じられた。その報道の中で、重要人物とされたロドチェンコフは、ロシアから命を脅かされる存在となり、フォーゲルの助けを借りてアメリカへ亡命。そして、カメラの前で、尿サンプルの交換などロシアが行ったドーピングについて証言を行っていく。
出典:ウイキペディア
これは監督のブライアン・フォーゲルやプロデューサーにとって、製作者冥利につきる歴史的な作品になってしまったのではないでしょうか?
個人的にはこれがオスカーを獲って、監督達が壇上に立ち、どんなコメントをするか、ぜひ見てみたいです。
あまりにスケールの大きな”瓢箪から駒”が起きてしまい、ロシアという大国の大きな犯罪が国際社会に公表され、その中心人物のロドチェンコフ氏は今も命の危険にさらされ米国の証人保護プログラムの元に暮らしています。
監督はじめ製作関係者も自分が暗殺されないか、心配にならないのだろうか?と思ってしまいます。
ロドチェンコフ氏によると、プーチン大統領も全部知っててドーピングの指示を出していたそうです。プーチン大統領はそれを完全に否定していますが、この作品の内容が100%真実だとしたら、堂々と、嫌われる事をやって嫌われるトランプ大統領より法の目をくぐってばれないように嫌われる事をするプーチン大統領の方が、ずっと怖いなぁ、と思いました。
でも、結局その卑怯な行為はばれて、ロシアという国としてオリンピックに参加する事はできなくなったので、国としてメダルを量産し、国強を見せしめる為にやった事が最も皮肉な結果になってしまったわけですね。
余談ですが、この作品を見ると、アマチュアスポーツではドーピングは違反にはならない=ドーピング検査をしないのでやっていてもばれないという事に気づきます。
趣味のバドミントンでいつも勝てない男性プレイヤー達に勝つ為にドーピングしようかなぁ…とちょっと悩みました。
『アレッポ 最後の男』
2017年5月NHK BS1放映
監督:フィラス・ファイヤド
共同監督
スティーン・ヨハネッセン
ハサン・カッタン
これは去年アカデミー賞短編ドキュメンタリー賞を受賞した
『ホワイト・ヘルメットーシリアの民間防衛隊ー』
と同じ題材(アレッポに住む素人の救急救命隊員達)を反対の切り口で撮っていて、その為にこっちの映像で映っているホワイト・ヘルメットの男達の方がずっとリアルで『ホワイト・ヘルメット』の方が、嘘っぽく感じます。
『ホワイト・ヘルメット』ではインタビューに答える男達全員が、自分達は平和主義者で、敵も味方も関係なくシリアの内戦の現場で、怪我をしてる人や命の危険のある人を助けている、とか、命を落としたり、怪我をする子ども達を見ると胸が痛む、みたいな事を口をそろえて言います。清廉潔白な雰囲気を押し出しながら……わざわざそういう事を言わせる事じたい、やらせの匂いがぷんぷんします。
それに比べ、『アレッポ 最後の男』では、ホワイト・ヘルメットの隊員達は反アサドの集会に参加し、「アサド政権と最後まで戦うぞ!」とこぶしを振り上げるシーンから、一人の隊員が、他の隊員と一緒にこのままアレッポで、アサド政権に抵抗し続けるよりも、妻子の安全のため仲間を捨て家族でトルコに亡命しようか、と悩む所まで、ホワイト・ヘルメットの隊員達をそのまま美化しないで映しとってます。本当に人間らしくてリアリティがあります。この作品を観ると、なんで『ホワイト・ヘルメット-シリアの民間防衛隊』みたいのがアカデミー賞とれたんだろう?と思ってしまいます。
ラストに見せられる衝撃の結末も究極のリアリティです。ドキュメンタリーの真骨頂だと思います。
NHK BS1って他にも中味の濃い優れたドキュメンタリーを放映してくれます。
知識欲を満たし、感性を育ててくれる本当にありがたいチャンネルです。
モンスターを飼う54歳
今回はどす黒い私の心の中をぶちまけました。
なので、汚い事、不道徳な事、誰かの自分勝手な言い分やくだらない悩みは聞きたくないという方は読まないでください。
(せっかくクリックして下さったのにすみません)
※『スイート17モンスター』と
の完全ネタばれをしています。
とってもセンスのいい邦題がついたアメリカ映画を観ました。
『スイート17モンスター』
2017年日本公開
監督:ケリー・フレモン・クレイグ
脚本:ケリー・フレモン・クレイグ
(21歳)
(56歳)
(52歳)
ブレイク・ジェンナー
(25歳)
あらすじ
ネイディーン(ヘイリー・スタインフェルド)は子どもの頃はいじめられっ子だったが、クリスタという親友ができて以来二人で楽しく過ごしてきた。
それって私からしたら十分リア充だと思うし、顔もヘイリーが演ってるから美人です。だからイケてない女子というには説得力に欠けるのだが、暗くてネガティブな17歳の女の子が改心するという話なので、イケてない女子高生の設定になっている。
なので、ネイディーンは、自分は不幸だと思っている。その理由が、出来の良すぎる、そして出来が良すぎてイヤミな一つ違いの兄と比べられて、
自分が「出来の悪い子、ひねくれためんどくさい子」と思われてるのがとても嫌だから。
でも、ひねくれているのは事実で、ひねくれてるけど、変に頭が良くて、変にプライドが高いから温厚なクリスタ以外の友人と仲良くなれないのだ。が、17歳という若さではその自分のどこが悪いかが分からず、自分が嫌い、とは思っているが、直す気はない。
母、兄、学校の先生、そしてネイディーンに好意をもってくれてる隣の席の男子に意地の悪いバカにした態度をとったり、”勝ち組の人はみんな敵”みたいな目で世の中を見てる。
だが、唯一の心のより所だったクリスタが大嫌いな兄と恋仲になってしまう。そこからネイディーンの本当の地獄が始まる。
クリスタに「兄と私のどっちを取るか決めて」と問い詰め、クリスタに「どっちかなんて選べない」と言われると怒って絶交宣言し、本当に世界でひとりぼっちになって、いよいよ17歳のモンスターの暴走状態に突入。だが、嫌っていた兄の一言でころっと改心し、問題はあっけなく解決する。
ネイディーンから超リア充で苦労なんか何もないと思われていた兄のダリアンは、暴走の果てに身も心もボロボロになったネイディーンがいつも心を許して愚痴を聞いてもらっている学校の歴史の先生の家に身を寄せてると、ネイディーンを心配する母親から頼られてネイディーンを連れ戻しに、しかもクリスタも一緒に連れてやってくる。そして
「家庭が複雑だから遠くの大学へ行くのはあきらめた。癒してくれる彼女はいるけどそれが妹を苦しめてる」
と、”自分も苦労してるんだ”告白をして、それを聞いたネイディーンが、兄も苦労してるんだ、と気づき、ひねくれて、みんな嫌い、自分だけ不幸、と思う気持ちがつきが落ちたように消える。
でも、成績優秀、スポーツも優秀、家庭では母に頼られ、学校でも人気者で、更に好感度UPを目指してマッチョ体型を極めようと筋肉増強剤を飲もうとするような若者が口では苦労してる、と言っても、実際はそんなに苦労してないだろ、大げさにいってるだけじゃない?と思ったし、ネイディーンを連れ戻しに来るのに、必要もないのにクリスタを車に同乗させてきて、ネイディーンが一番見たくない”兄貴とクリスタが一緒にいる所”を無神経に見せちゃっているのだ。私だったら、クリスタが一緒に来たのを見たら「あんたには関係ないでしょ、何でここにいるの?」って更に憎らしくなって、逆上して、兄の”自分も苦労してるんだ”告白なんて素直に聞けないと思うんだけどなあ、そういう無神経ないい子ちゃんだから兄が嫌い、なんだろうな……とも思ったし。
そういうわけで、主人公の問題が、劇的に、安易に解決してしまう青春映画だった。日本ではそういうドラマも驚かないけど、外国の青春映画で、こういう安易に問題が解決する作品って、最近では珍しいんじゃないかな、と思った。
ただ、学校内カースト最下位のイケてない、そしてこじらせ女子のネイディーンの思考と行動は実にリアルでYahoo!映画や映画.comのレビューサイトでも、
「昔の自分を思い出す」というコメントが多い。
だが、私の場合は昔どころか今の自分を見ているみたいだ。
東京に就職した一人息子とは年に4日位しか会わない。お盆と正月に頼んで帰ってきてもらう。メールはしないし、電話は年に10回位、必要事項だけ言い合って1分以内で終わる。大学入学前、家にいる時も、食事に行ったり、スーパーに一緒に行ったりするのは半年に1回位だったし、無口なタイプなので、話をする時は、こっちが余計な事や不必要な事をべらべらしゃべってもうざがられるので、同性と話す時の三分の一の時間で終わらせていた。それでもいてくれたから今程淋しくはなかった。
【娘を産んでその子が大きくなったら友達親子になって買い物や旅行やグルメを一緒にする】
そう思って結婚した私。努力なんてしなくても当たり前のように娘のいる母親になれると思っていた私は、スーパーで娘を連れたお母さんを見ると、いつも、その娘が幼児でも、高校生でも、赤ちゃんを抱っこしたヤングミセスでもとにかく”娘がいる女性”に対して、「いいなぁ、私と違って幸せな側にいるんだなぁ」と思う。仲のいい友人や長年の知人に対してはもう何も感じないが、初めて会った人や最近親しくなった女の人に娘がいることが分かるとがっかりする。「ああ、この人にも娘がいるのか…」と。
普通の女性が、特に努力をしないで手に入れているものが私には手に入らなかったとひがむ。
多分、世界中のお母さんの三分の二位の人が娘を持っているだろうと思うので、自分の周りの女性達に対しても、その割合の人に対して、ひがんで劣等感を抱えて生きているという事だ。ドロドロです。ネイディーンのようなモンスターが心の中に住んでいる。
そんなに娘が欲しいなら、できるまで頑張ればよかったじゃん、と思われると思いますが、頑張るチャンスを病気で奪われたのです。
息子を産んだ後、次こそは娘を!と思いましたが、その後病気になってしまい、命には全然かかわらないんだけど、妊娠、出産で悪化する為、二人目を作る決心がつかず、又、息子の子育てが毎日楽しくあっという間に過ぎてしまったので、将来の事や自分の事について深く考えずに年を取ってしまい、病気が完治した時は40歳だった。40歳だけど、産めるならもちろん産みたいし、男の子一人じゃ、将来絶対に淋しいから、もう、性別はどっちでもいいから
「もう一人育てよう」
と旦那に言ったら、
「今からじゃ、その子が大学行く時定年で、学費困るからヤダ!」
ときっぱり拒否された。
子どもの声がする明るい家庭よりお金の方が大事なのか、この人は…とすごーくがっかりして、でも、仕方なくて……
でも、そこで簡単に諦めないでいろんな説得方法や解決策を考えて実行してれば、目標は実現できたかもしれない。本当に死ぬほど娘が欲しければ、離婚して、たとえシングルマザーで貧乏しても、養女をもらって、息子と娘との精神的には満ち足りた人生があったかもしれない。そういう死にもの狂いの努力が、覚悟が、ないから、人の事をひがんでばかりの負け組人間になってしまうのかもしれません。
病気のせいで目指していた事を諦めなければならなかった、とか人生がうまくいかなかった、という人は、勿論私だけではないと思う。人生は平等ではない。
平等なら、生まれて何か月で、飢餓や病気のために死んでいく赤ちゃんや、戦争や親からの虐待で死んでいく子ども達と、子どもや孫に囲まれ、安らかな老後を過ごしている人々の両方がいる事はありえない。
生きるという事はこの不平等を受け入れる事から始まるのだろう。
でも、幸せそうな人達の中で暮らしている「自分は幸せではない」と思っている私は頭では不平等を分かっていても、感情で不平等を受け入れられない。
例えば、先生になりたかった男又は女がいるとする、でも何かの障害があったか、病気か何かでなれなかったので、泣く泣く諦めて普通のサラリーマン、又は主婦になったとする、そして、家庭を持ち、その環境で年を重ねて生きていたら、普段は自分の願いがかなわなかったという痛みは忘れているだろう、過去を忘れられるという事は本人は意識してないけれど、「人生は思うようにはいかない」事を受け入れる事ができたという事だと思う。
たまに、先生という生物に会うと思い出すかもしれない。でも、サラリーマンや主婦が先生に会う回数なんて、子どもの学校行事とか、TVのドラマで見るとか、多くても月に10回位だと思う。だから痛みを感じるのは、多くて月に10回だろう。
でも私は、他の女性が娘と一緒にスーパーに行く、どこかへ食事に行く、出産した娘が里帰りしてきた、孫を連れた娘が遊びに来てる、等の光景や話を毎日見たり聞いたりしながら生きている。その度に胸がちくんと痛む。胸が痛む回数が多くて辛くて仕方がない。辛いから頭では不平等を分かっていても感情が耐えられない。
又、アフリカの貧しい村では自分だけじゃなく、周りの人みんなが、不便で大変だから住人はみんな「自分だけ不平等だ」なんて感じなくて、私のように辛くないのではないか、とも思う。いつもそんな風に考えてしまう私は、リアルネイディーンだ。50過ぎたおばさんなのに、17歳の子と同じ精神構造なのだ。しかも、劇的に解決する映画と違って、私のネイディーン気質は、簡単には解決しない。
『マンチェスター・バイ・ザ・シー』は米国の商業映画には珍しく劇的に解決しない作品です。
2017年日本公開
監督:ケネス・ロナーガン
脚本:ケネス・ロナーガン
出演:ケイシー・アフレック
(42歳)
ミシェル・ウイリアムス
(37歳)
(52歳)
ルーカス・ヘッジス
(21歳)
アカデミー主演男優賞受賞『マンチェスター・バイ・ザ・シー』予告編
あらすじ
ボストンでアパートの修理、便利屋として生計をたてているリー・チャンドラー(ケイシー・アフレック)は怒りっぽく周囲の人とは必要最小限の交流しかしない。
かって故郷のマンチャスター・バイ・ザ・シーで愛する妻と3人の子どもと幸せにくらしてたが、自分の不注意で3人の子どもを焼死させたあまりにも重い過去が、彼をそうさせている。
ある日、その故郷に住む兄が心臓病で急死し、兄の遺言によって兄の息子、16歳のパトリックの後見人に指名される。
葬式の取りまとめや兄の大切な忘れ形見の行く末を任されて、不本意ながらも辛い思い出の残る故郷に一冬滞在し、甥と一緒の生活を過ごしたリーの凍りついていた心はすこしづつ溶かされていく。
3人の子どもを失った妻も、リーを激しく責めたて、精神のバランスをくずしていたが、リーと別れた後、立ち直って再婚し、又子どもを産み育てていた。そして
「もう、恨んでない。激しく責めたててすまなかった」
と、涙を流して伝えてリーの再出発を後押しするが、それでもリーの氷は完全には溶けない。今後もマンチェスター・バイ・ザ・シーに住み続けたいパトリックの為に後見人の自分もそこに住み続ける事はどうしても耐えられない。
パトリックを、亡き兄の友人で、親切で子ども好きな夫婦の養子にしてもらい、兄が用意しておいた養育費をすべて譲り、自分は又ボストンに戻る決心をする。
だが、以前とは違う。リーはパトリックの行く末を見守るという使命=生きる糧を手に入れたのだった。
この作品は本当に『スイート17モンスター』とは対照的です。
まず、主人公が、表情が生き生きして17歳の色んな顔を見せてくれるネイディーンとは逆に、よく「死んだ魚のような目をしている」と言われるケイシー・アフレックが、そのキャラクターをそのまんま反映させて人生を捨てた男の荒廃した雰囲気を自然に醸し出してます。
そして、こっちの作品こそ、リーに人生の問題を解決してほしい、解決させてやってくれ!と観ている人は誰もが思う流れで、過去を乗り越え、又マンチェスター・バイ・ザ・シーに住む事になる、という劇的な結末は少しも不自然ではないのですが、そういう視聴者の願いを拒んで、実にリアルに、私達の人生と同じように”劇的には解決しない”結末 を見せられます。
”人生はドラマや映画のように劇的には解決しない”
という事を思い出させてくれる、その点では『スイート17モンスター』よりずっと共感できる気がします。
人生の問題は、誰かの一言とか一つの行動でドラマチックに解決などしない。
という”ほんもののドラマ”でした。
解決してくれるのは神の見えざる手なんじゃないか、と自分を顧みて思う事があります。
幸せな事がいっぱいあると、小さな幸せを大切にしなくなるし、若い時の選択肢がいっぱいあって、何でも選べる、何者にもなれる、という時って、逆に1つに決められなくて、いつまでも迷った状態で、自分の幸せはここじゃないどこかにあるといつも思っている青い鳥症候群になっちゃう、少なくとも、私のような欲張りの怠け者はそういう環境では感謝しないし、何もしない。でも、今の私は幸せな事がたくさんないし、選択肢も2つ、又は1つきりしかないような状態だから、その1つに専念せざるをえないし、小さな事にも感謝して(今、病気じゃない事、旦那が真面目に働いてくれるおかげで貧乏じゃない事、仲良くない夫婦でも、寒い夜に鍋を一緒につつける相手がいる事とか)生きていくという「追い込まれてやっと気がついた幸せ」がある。
最近、自分の事を応援してくれてるような言葉に出会って泣いた。
「人は失ったもので形成される。人生は失うことの連続だ。失うことでなりたかった自分になるのではなく、本当の自分になれるのだ」
byアレハンドロ・イリャニトウ
(映画監督、私と同じ54歳)
ハリウッドのセクハラ断罪旋風における陰と陽
去年の10月、「New York Times」と「New Yorker」がハリウッドの超大物プロデューサー、ハーベイ・ワインスタイン(65歳)のセクハラ暴露記事を出して以来、ハリウッドだけでなく世界中のショービジネス界を席巻しているセクハラ暴露&断罪旋風、先のゴールデングローブ賞授賞式のニュースでも受賞作やウイナーよりもその関係の話の方が話題になっていた。
一夜にして輝かしいキャリアと名声を奪われ、賞レースに割ってはいれそうな作品
『All The Money in The World』
(監督:リドリー・スコット 脚本:デビッド・スカルバ)
からも出演シーンをカットされたケヴィン・スペイシー(58歳)。
Netflixのドラマ『ハウス・オブ・カード』の制作現場で、制作総指揮の権限をちらつかせて常に若い男性に不適切な接触を続けていた、とか制作アシスタントを性的に暴行したとか、クソすぎるエロおやじなわけですが、その犯罪告発の発端となった舞台俳優アンソニー・ラップのセクハラ被害告白。
過去2度のアカデミー賞の受賞経験があるオスカー俳優のケヴィン・スペイシー(58)が、自身のTwitterを通して、少年時代に彼にセクハラを受けたという主張する俳優に対して謝罪。また同声明の後半で彼はゲイであるとカミングアウトしたが、SNS上では「失望した」「言い訳にもなっていない」「注意をそらそうとしている」と批難が殺到している。
きっかけは、ドラマ「スター・トレック:ディスカバリー」や映画『RENT/レント』に出演している俳優のアンソニー・ラップ(46)による、Buzzfeed Newsのインタビュー記事での告発。子役時代から舞台を踏んでいたアンソニーがまだ14歳だった1986年のこと、アンソニー少年は当時26歳だったケヴィンのアパートに招かれ、酔っているケヴィンにベッドの上で口説かれたという。そして押し倒されるような格好になり恐怖で凍り付いたというアンソニー少年だが、その後は解放されたとのこと。アンソニーは「もっと恐ろしいことが起こらずに非常に幸運だった」と振り返っているが、この少年時代の経験は彼にトラウマを与え、今もケヴィンを見ると気分が悪くなることを明かしていた。
引用:シネマトゥデイ
これは、セクハラではなく未成年淫行未遂事件ではないんだろうか、もし、これが大人だったら暴行未遂になるんだろうか、押さえつけられて、動けなくされての強要なら暴行なんだろうが、逃げようと思えば逃げられる状態での事なら、暴行にはならないし、さらに上下関係や雇用関係のない相手が、酔って言い寄ってきて、危ない雰囲気になったけど、結局は無事でした、という事もセクハラにされちゃったら毎日世界中の男達が何千人(女性もありえる)も解雇されてしまうはずだ。
今の反セクハラ運動の急激な盛り上がりぶりを見ていると、酔った勢いでの男女の間違いも、後から女性が「セクハラだ!」と告発したら、セクハラになっちゃうんではないか、日本のエンタメ界とかビジネス界に今だ根づいていると思われる”枕営業”はセクハラにならないのか?もし、セクハラならたとえ合意の上でもやはり男性が罪に問われるのか?とか、疑問に思う。
現在、ハリウッドの中心にいる女優、ジェニファー·ローレンス(27歳)も、ワインスタインに枕営業かけて、それで、実力以上の地位やメディアへの露出を手に入れた人、というのが、あっちでは公然の秘密みたいになってるそうです。
そういうのを聞くと、枕営業なんて絶対にかけてこなかっただろうし、かけても男性側から断られそうなフランシス・マクドーマンド(60歳)はかっこいいなぁ。
ゴールデングローブ賞への出席にも、他の女優陣が、”連帯”して黒のドレス着用だったのに、紺色を着てきたそうだ。
出典:ELLE ONLINE
まあ、23歳でジョエル・コーエン監督(現在65歳)と結婚しちゃってるからしたくてもできなかっただろうし、枕営業に向かない容姿のフランシスに惚れ、妻にして、あの離婚率がはんぱないハリウッドでずーっと添い遂げているコーエン監督も知性あふれるなぁ、と尊敬。
カトリーヌ・ドヌーブ(74歳)やジャーナリスト、映画監督、学者など100人が連盟でフランスの新聞「ル・モンド」誌上で主張した
「男性が女性を口説くことは犯罪ではない」
という意見。
実は私のような女性ホルモンが涸れはてた田舎のおばさんにも、この意見に関係するような問題がある。
(以下の話は個人的であまりにもスケールの小さな話なので、読みたくない方は飛ばしてください)
私は趣味でバドミントンをやっている。いろんなサークルにまぜてもらっているのだが、その中で、週1回一緒にバドミントンをやっている60歳位のおじさんに体育館にいる2時間の間、2,3回お尻をなでられる。
普通に家庭を持ち、仕事をし、バドミントン仲間の間では普通以上に”いい人”であるが、確実に、わざと、お尻をなでる。「今、お尻さわっーたー!」と言い返しても、「さわったよー!」と頓着ない。
それをたまに他のおばさんに目撃されて恥ずかしいし、私も勿論気分はよくないので、女友達に相談すると、「それ、セクハラだよ、やめてって言わないとダメだよ」と言われる。でも、考えてみたら、これはセクハラではない。
何故なら、そのおじさんと私とは雇用関係も上下関係もない平等な間柄であるので、もし、私が、体育館のみんなに聞こえる場所で、「お尻さわるのやめてください!!」って怒っても、私には何の不利益も生じないから。
むしろ、さわる彼の方がみんなに軽蔑されて肩身の狭い思いをするだろう。
それでも、私は怒る事はできない。その彼とは、お尻をなでられるだけでなく、常に冗談を言い合って楽しく過ごせる間柄なので、もし、私が怒って、その人との今の楽しい間柄が壊れてしまったり、他の人々から私と彼の事が変に注目されたり、目立ってしまう事の方が嫌だからだ。
こんな風に思っちゃう私はセクハラ撲滅や女性の人権の尊重を唱える「ME TOO」運動の女性達からは「純潔でない」と非難されちゃうんだろうか?
もっと聡明な女性だったら、彼と被害者対加害者みたいな対立関係にならずにうまーく策をこうじて、お尻をなでるのをやめるように解決できるだろうが、そんな名案も浮かばないので、ま、いっか、と先延ばしにしている。人生、宙ぶらりんのままにしておいた方がいい事もあるかもしれない、と。
セクハラの定義をどう考えるかは、上下関係のある者同士とか職場の中以外の場所では、色々複雑 なのかもしれない、と思う。
誰が見ても、完璧なセクハラ行為の対価をきっちり支払うはめになったケヴィンとは正反対に、完璧にセクハラの犯罪加害者でありながら、この断罪旋風のわずか7か月前にアカデミー賞主演男優賞を取ってしまった幸運な男もいる。
ケイシー・アフレック(42歳)だ。
この騒動が起きるのが、1年早かったら、彼は受賞どころかノミネートもされなかっただろう。 彼の人生最大の幸運ではないだろうか。
『容疑者ホアキン・フェニックス』公開直前の2010年7月、製作に関わった女性スタッフふたりからセクハラで訴えられ、200万ドル強の損害賠償金を求められたケイシー。当人は疑惑を全否定し、「(訴えは)公開を邪魔するためのものだ」とメディアにアピールしたものの、これはまったくの嘘。インディーズ映画のスタッフとはいえ、映画が公開されないことは女性たちの得にならないのだから。もちろん当時のケイシーはスターじゃないので、訴訟自体もさほど話題にならず。被害者の要求通りに和解金を支払って口封じしたけど、オスカー候補になったことから蒸し返されるハメに。「セクハラ男にオスカーはふさわしくない」と声を上げる女優も続々!
引用:ELLE ONLINE
この男の幸運はもっとある。
今までは身体障害者、知的障害者、エイズ患者、アル中患者、難病者、LGBT、落ちぶれてくスター、汚れに汚れた悪役、本人が憑依したかのように演じられた歴史上の有名人等、インパクト大な役が主演男優賞を取ってたのに、去年は対抗馬にそういうインパクトの強いキャラクターがいなかったので、「過去の重荷を背負い、人生を捨てている便利屋の男」という主演男優賞を取るには普通すぎる役でオスカーを手に入れられたという事も。
アカデミー主演男優賞受賞『マンチェスター・バイ・ザ・シー』予告編
更に個人的には、ケヴィンと変わらないじゃないか、むしろ、彼より卑劣でズルいだろ、と思うマット、デイモン(47歳)とラッセル・クロウ(53歳)もこの騒動であまり痛手を負ってない。
彼らは今のところ、キャリアには何の傷もつかず、これからもハリウッドの第1線に立ち続けるつもりなんだろう。
ただ、マットはワインスタインのセクハラについての無神経な発言や、下記の行動のせいで、賞を取る為に作る作品にはもう呼ばれないだろう、と噂されているし、女性が主役の『オーシャンズ8』(2018年米国公開予定、監督、脚本:ゲイリー・ロス)へのマットのカメオ出演の企画に対して反対する署名運動が一般人から起きている。最近作の『サバービコン』(監督:ジョージ・クルーニー 脚本:コーエン兄弟)
もアメリカでは興行成績が惨敗だったとか。
また、ケーシー・アフレックについても、今年のアカデミー賞授賞式に来て、世界各国に放映されるTVカメラや会場の同業者が見てる前で舞台に上がり、今年の主演女優賞のウイナーにオスカーを手渡さなければならないのだが、ヒステリックと言ってもいいくらいのこの状況下で晴れの舞台に上がらなければならないのは、針のむしろなのでは?
やはり、"断罪の嵐"からは逃げ切れなかった、という事なのか……
マットとラッセルがセクハラ記事のもみ消しに協力?
すると、新作のプロモーションでテレビ出演したベン・アフレックの親友マット・デイモン(47)が「グウィネス・パルトロウ(のセクハラ被害)についてはベンから聞いて知っていた。彼は彼女と付き合っていたからね」と抜け駆け告白。
ところが『ザ・サン The Sun』によると、こちらも一部メディアやツイッターで叩かれるはめに。
まず、女優ケイトリン・ダラニー(50)が同誌のインタビューに答え、「マットの言い訳なんて通用しないわ。彼らが20年前に告発していてくれていれば、大勢の女性たちが救われたのに」と一刀両断。
さらに元『ニューヨーク・タイムズ』の記者は、2004年時点で発表しようとしていたワインスタインのセクハラ関連記事が外部からの圧力でもみ消されたことを『The Wrap』で暴露。
圧力を掛けてきた人物の中には、マット・デイモンの他にラッセル・クロウ(53)も含まれていたと書いています。
引用:女子SPA!
更に更に、あの最近旬な映画評論家、町山智浩さんが言ってたのですが、
あの名匠中の名匠、アルフレッド・ヒッチコック監督(1980年没)も、セクハラの常習者だったそうです。でも、もう死んじゃってるから、声高に取り上げられる事もないし、名声に傷がつく事もないのでしょう、きっと。
最後にこのセクハラ旋風で男をより上げた人がいます。
ブラッド・ピット(54歳)です。
まだ、人気俳優じゃなかった頃、何の力も持ってなかった時に、付き合っていた女優グウィネス・バルトロウ(45歳)に、ワインスタインからのセクハラ被害を打ち明けられ、怒って、あるパーティでワインスタインに詰め寄り、
「グウィネスに二度とあんなことするな」と、警告していた事が目撃されていたそうで
す。
更に彼はハリウッドのこんな不都合な真実もちゃんと告発しています。
ブラッド・ピットがハリウッドの小児性愛犯罪を暴露
竹下雅敏氏からの情報です。
引用元:日本や世界や宇宙の動向
さすが
「成績より作品の質を重視する」がモットーのプランBエンターテインメント社長!
珠玉の名作『それでも夜は明ける』(2014年日本公開、アカデミー賞作品賞受賞)をパラマウントが客が入らない内容だから、と製作をおりた後「必ず映画化する!」と、お金をかき集め作った名プロデューサー。
私はこの人を”ハリウッドの良心”と呼んでおります。
長い記事を読んでくださった方、本当にありがとうございました。
テレビ・映画業界は、小児性愛犯罪ネットワークに深く関与しており、これらのネットワークを運営しているのは、イルミナティに属するエリートたちだということです。こうした犯罪組織に子供たちが巻き込まれる理由は、子供たちを有名にしたくて仕方のない親たちがたくさん居るからだと言うのです。彼らは自分の子供を有名にするために、“子どもたちの魂を売ってしまう”と言っています。非常にリアリティがあり、恐ろしさを感じます。
どうも、映画に出演する幼い子供たちは、テレビ局の経営者、映画業界の関係者、政治家、銀行家、他の業界のエリートらの餌食になるようです。
“続きはこちらから”以降の記事では、ブラッド・ピットの我が子への虐待疑惑が濡れ衣であったとあります。彼の暴露を知った今となっては、この虐待疑惑の虐待の意味が問題だとわかります。彼が無実であり、さらに彼が“自分の子供を有名子役にさせた母親は皆狂っています”と引用元の記事で発言していることから、この発言は、離婚したアンジェリーナ・ジョリーを暗示させるものになっています。言い換えれば、ブラット・ピットは、アンジェリーナ・ジョリーなら自分のハリウッドでの地位を不動のものにするためには、我が子の魂を売りかねないと言っているわけです。
彼女の顔を見ていると、その通りだとしか思えません。しかも、イルミナティは元々そうしたことをメンバーに強制する組織なのです。