人が死ぬ映画が好きで…
〇〇が死ぬ、というネタばれを基に書いてあります。
どういうわけか、人が死ぬ映画が好きです。
本来なら、世間様の盛り上がりを横目で見て素通りしそうな(ウソです、ガーディアンズが少しでも出る以上素通りしません)『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(2018年4月27日日本公開予定)も、その次の続編『アベンジャーズ』4作目でアイアンマン、キャプテン・アメリカ、ブラック・ウィドウ、ソー等が死ぬかもしれないという噂を聞き、それにつながるストーリーなのか、と思うと、がぜん観たい映画になりました。解禁された予告映像にも、キャップ達が倒れているシーンがありましたしね。予告編、観られた方いますか?サノスの迫力凄かったですね!
人が死ぬ映画が好きな理由①
映画とかドラマって一般的には視聴者には起こりえないような話を観せてくれる物。そのせいで、誰かが死ぬような展開も起こる。起きて当たり前。そこで、ハッピーエンドにするために、死ぬはずの人が死なないとリアリティがなくて興ざめしてしまい、感動したいのに感動できない……
米国ドラマ『ER』ファーストシーズンの第一話を観た時から私は夢中になりました。それまでの日本のTVドラマでは、病院が舞台のドラマで、病人や怪我人がうじゃうじゃ出てくるのにそういう人達が誰も死なない、主人公が難病の少女なのに最終回には何故か治って元気になっちゃってる、みたいのが定番だったように思いますが、『ER』はそんなウソは描きません。事故でER診療室に運ばれた重傷患者は医師達の懸命な治療にもかかわらず、サクサク死にます。
その死を見届けた医師達もいつまでも感傷に浸ってるわけにはいかず、割り切って治療を待っている次の患者の元へいきます。これこそ病院(生と死の瀬戸際の場所)のリアルじゃないですか?
そんな残酷なリアルを描いてるにもかかわらず(そのリアルが根底にあるからこそ)その現場で悩み、奮闘する人間臭さプンプンの医師や看護師達、そして命の瀬戸際に立たされた患者達の姿に本物のヒューマニズムを感じ、感動するのです。
『ER』が日本で放映された後、やっと、今までの患者がみんな助かる病院ドラマからの脱却をした『救命病棟24時』(1999年 フジテレビ制作)が作られました。(でも、リアリズムは『ER』に比べれば甘々ですが)
『ER』の原作、製作総指揮はあのマイケル・クライトン(2008年に66歳で没)です。ファーストシーズンの第3話までの脚本も彼で、「人間は自然には勝てない」という重いメッセージを内包しながら、大ヒット人気作品になった『ジュラシック・パーク』(1993年公開)の作風がこのドラマにも重なる気がします。
『ER』は、2009年に(日本放映では2011年)第15シーズンをもって終了しましたが、今でも私の生涯のベストofベストです。
ちなみに、二番目に好きな海外ドラマは『ER』のスタッフ達が作っている米国ドラマの『シェイムレス』(2011年~)ですが、日本ではまるで人気がないようで、DVDも発売されてません。
人が死ぬ映画が好きな理由②
人の死に方にはその人の価値観や人生観が現れると思うから。
大切な人の為に死ぬとか、自分を犠牲にしても誰かを守りたい、とか。
私は溺れている人を助けに川に飛び込む、とか、線路の中で動かず、自殺しようとしてる人を連れ戻しに行って一緒に電車にひかれる、等の尊い行為は死んでもできない、多分、年老いた親や旦那の為にさえ死ねないと思う。そんな情けない人間だけれど、子どもの為なら死ねると思う。子どもの幸せの為に死ぬような事があったら、幸せだ、とさえ思う。だから『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーVol.2』で、自分の息子(血のつながりなんて無意味な実質的親子)を助ける為に死んだヨンドゥには共感だけでなく憧れすら感じる。
そして、ヨンドゥよりも更に自分と重ねて共感してしまうのが、
『グラン・トリノ』
の主人公、コワルスキーです。
2009年日本公開
監督:クリント・イーストウッド
脚本:ニック・シェンク
『グラン・トリノ』あらすじ
(完全ネタばれ)
フォードの自動車工を50年勤めあげたコワルスキー は妻を亡くし、頑固さゆえに息子達にも嫌われ、人との交流は数少ない友人とのつき合いだけ、自宅ポーチにアメリカ国旗を掲げ、愛車グラン・トリノを心の糧にデトロイトで孤独な隠居生活を送っていた。
燐家のモン族(ラオスの山岳民族の移民)の若者タオが、同郷のギャングにそそのかされコワルスキーの愛車を狙って忍び込んだところを銃で追い払ったのをきっかけに、タオや姉スーをギャング達から救ってやり、彼らから家族のような接待を受け、心を通わせ始める。スーからタオを一人前の男にするように頼まれ、彼に深くかかわる事になった為、タオやスーを家族同然に大切に感じるようになるが、病に侵され生い先が長くないことを知る。タオ達をトラブルに巻き込んでいるギャングをコワルスキーが懲らしめた事が発端になり、タオや姉スーがギャング達に壮絶な報復をされる。
復讐に燃えるタオを家に閉じ込め、コワルスキーは単身、ギャング達の住み家に乗り込と、わざと近隣の住民が自分とギャングのやり取りを見物する状況を作り、ギャングをあおって、自分を射殺させる。目撃者の証言で無防備の人間を撃った重罪を言い渡されるギャング達は長い刑期に服する事になり、タオはギャングとのトラブルから解消され健全な未来を手に入れる。
コワルスキーの遺書には愛車グラン・トリノをタオに譲ると記してあった。
この作品を最初に観た時は私は彼とは違ってました。でも、今は、まだ夫婦揃っているし、知り合いや友人もコワルスキーよりはいても、故郷をでてった息子とは、要件連絡以外のメール、電話をしないので、半年位、音信なしが当たり前、子どもとほぼ絶縁状態な環境はコワルスキーと同じで(これが娘だったら違うんでしょうね)彼の淋しさとか絶望を痛い程わかってしまうようになりました。
血のつながりはない、でも自分を肉親のように慕い、頼ってくれる若者の為なら長くない命をくれてやってもいいと思う気持ち、分かる。誰よりも分かる!と思ってしまう。
世界で一番大切な人のために死ぬ……こんな死に方いいなあ……と。
(でも、射殺されるのは怖いな)
2005年日本公開
監督:クリント・イーストウッド
脚本:ポール・ハギス
も尊厳死とそれにかかわる人々を描いていて登場人物の価値観が試されている。
フランキーは人工呼吸器で呼吸し、首から下を動かせずに生きながらえなければならない絶望より死を望むマギーの願いを聞き、彼女を安楽死させる。だって、娘同然の大切な大切なマギーが、自分で舌をかんでまで死にたがってるんだもの。
このマギーの誇り高い生き方にまず、泣きます。マギーは言います。
「あたしは生きた、思い通りに。その誇りを奪わないで。
今の望みはそれだけ」
次に彼女のその願いをかなえてあげるフランキーの愛情の深さに泣きます。そして息を引き取る直前、マギーが、ボクシングの試合に着る自分のガウンの背中にフランキーが付けた"モ・クシュラ”という言葉の意味を教えてもらった瞬間、更に泣かされます。「愛する人よ、お前は私の血」それを聞いてマギーは旅立ちます。
フランキーとマギー、お互い肉親に見放された二人。その血のつながらない二人の絆の強さ。フランキーの行為にはカトリック団体や尊厳死に反対する人々から抗議があったそうだけど、フランキー自身も敬虔なカトリックなのである。本当に愛してるという事は、その人が心から望む事をしてあげる事ではないだろうか、たとえ死でも。
「安楽死は大罪です」とか「すべては神に任せなさい」みたいなきれい事しか言わない、マギーとは赤の他人の神父とフランキーとの対比が鮮やかだった。
『グラン・トリノ』と『ミリオンダラー・ベイビー』は、
「本当に人を愛するとはこういう事だ」という事を描いていると私は思っている。
この世で死ぬ事ほど辛い事はないと思う。だけど、その最高に辛い事「死」を描いた作品を観ると、人生の真実とか、人間の尊さ、偉さを教えてもらえる気がする。
だから、死ぬ話、そして人の死を丁寧に扱っている映画が好きだ。
★おまけ★
前回の記事で、田舎暮らしの愚痴をさんざん書いてしまい、ちょっと反省しました。
田舎に住んでると、こんないい事もあります。
通勤途中に毎日こんな景色が見れます。