映画についてのよけいな事 

練りきり作りましょう!

モンスターを飼う54歳

今回はどす黒い私の心の中をぶちまけました。

なので、汚い事、不道徳な事、誰かの自分勝手な言い分やくだらない悩みは聞きたくないという方は読まないでください。

(せっかくクリックして下さったのにすみません)

 

『スイート17モンスター』

 マンチェスター・バイ・ザ・シー

 の完全ネタばれをしています。

 

 

とってもセンスのいい邦題がついたアメリカ映画を観ました。

『スイート17モンスター』

2017年日本公開

監督:ケリー・フレモン・クレイグ

脚本:ケリー・フレモン・クレイグ

出演:ヘイリー・スタインフェルド

                  (21歳)

   ウディ・ハレルソン

               (56歳)

   キーラ・セジウィック

               (52歳)

   ブレイク・ジェンナー

               (25歳)

 


映画「スウィート17モンスター」日本版予告

 

あらすじ

ネイディーン(ヘイリー・スタインフェルド)は子どもの頃はいじめられっ子だったが、クリスタという親友ができて以来二人で楽しく過ごしてきた。

それって私からしたら十分リア充だと思うし、顔もヘイリーが演ってるから美人です。だからイケてない女子というには説得力に欠けるのだが、暗くてネガティブな17歳の女の子が改心するという話なので、イケてない女子高生の設定になっている。

なので、ネイディーンは、自分は不幸だと思っている。その理由が、出来の良すぎる、そして出来が良すぎてイヤミな一つ違いの兄と比べられて、

自分が「出来の悪い子、ひねくれためんどくさい子」と思われてるのがとても嫌だから。

でも、ひねくれているのは事実で、ひねくれてるけど、変に頭が良くて、変にプライドが高いから温厚なクリスタ以外の友人と仲良くなれないのだ。が、17歳という若さではその自分のどこが悪いかが分からず、自分が嫌い、とは思っているが、直す気はない。

母、兄、学校の先生、そしてネイディーンに好意をもってくれてる隣の席の男子に意地の悪いバカにした態度をとったり、”勝ち組の人はみんな敵”みたいな目で世の中を見てる。

だが、唯一の心のより所だったクリスタが大嫌いな兄と恋仲になってしまう。そこからネイディーンの本当の地獄が始まる。

クリスタに「兄と私のどっちを取るか決めて」と問い詰め、クリスタに「どっちかなんて選べない」と言われると怒って絶交宣言し、本当に世界でひとりぼっちになって、いよいよ17歳のモンスターの暴走状態に突入。だが、嫌っていた兄の一言でころっと改心し、問題はあっけなく解決する。

ネイディーンから超リア充で苦労なんか何もないと思われていた兄のダリアンは、暴走の果てに身も心もボロボロになったネイディーンがいつも心を許して愚痴を聞いてもらっている学校の歴史の先生の家に身を寄せてると、ネイディーンを心配する母親から頼られてネイディーンを連れ戻しに、しかもクリスタも一緒に連れてやってくる。そして

「家庭が複雑だから遠くの大学へ行くのはあきらめた。癒してくれる彼女はいるけどそれが妹を苦しめてる」

と、”自分も苦労してるんだ”告白をして、それを聞いたネイディーンが、兄も苦労してるんだ、と気づき、ひねくれて、みんな嫌い、自分だけ不幸、と思う気持ちがつきが落ちたように消える。

でも、成績優秀、スポーツも優秀、家庭では母に頼られ、学校でも人気者で、更に好感度UPを目指してマッチョ体型を極めようと筋肉増強剤を飲もうとするような若者が口では苦労してる、と言っても、実際はそんなに苦労してないだろ、大げさにいってるだけじゃない?と思ったし、ネイディーンを連れ戻しに来るのに、必要もないのにクリスタを車に同乗させてきて、ネイディーンが一番見たくない”兄貴とクリスタが一緒にいる所”を無神経に見せちゃっているのだ。私だったら、クリスタが一緒に来たのを見たら「あんたには関係ないでしょ、何でここにいるの?」って更に憎らしくなって、逆上して、兄の”自分も苦労してるんだ”告白なんて素直に聞けないと思うんだけどなあ、そういう無神経ないい子ちゃんだから兄が嫌い、なんだろうな……とも思ったし。

そういうわけで、主人公の問題が、劇的に、安易に解決してしまう青春映画だった。日本ではそういうドラマも驚かないけど、外国の青春映画で、こういう安易に問題が解決する作品って、最近では珍しいんじゃないかな、と思った。

ただ、学校内カースト最下位のイケてない、そしてこじらせ女子のネイディーンの思考と行動は実にリアルでYahoo!映画や映画.comのレビューサイトでも、

「昔の自分を思い出す」というコメントが多い。

だが、私の場合は昔どころか今の自分を見ているみたいだ。

 

東京に就職した一人息子とは年に4日位しか会わない。お盆と正月に頼んで帰ってきてもらう。メールはしないし、電話は年に10回位、必要事項だけ言い合って1分以内で終わる。大学入学前、家にいる時も、食事に行ったり、スーパーに一緒に行ったりするのは半年に1回位だったし、無口なタイプなので、話をする時は、こっちが余計な事や不必要な事をべらべらしゃべってもうざがられるので、同性と話す時の三分の一の時間で終わらせていた。それでもいてくれたから今程淋しくはなかった。

【娘を産んでその子が大きくなったら友達親子になって買い物や旅行やグルメを一緒にする】

そう思って結婚した私。努力なんてしなくても当たり前のように娘のいる母親になれると思っていた私は、スーパーで娘を連れたお母さんを見ると、いつも、その娘が幼児でも、高校生でも、赤ちゃんを抱っこしたヤングミセスでもとにかく”娘がいる女性”に対して、「いいなぁ、私と違って幸せな側にいるんだなぁ」と思う。仲のいい友人や長年の知人に対してはもう何も感じないが、初めて会った人や最近親しくなった女の人に娘がいることが分かるとがっかりする。「ああ、この人にも娘がいるのか…」と。

普通の女性が、特に努力をしないで手に入れているものが私には手に入らなかったとひがむ。

多分、世界中のお母さんの三分の二位の人が娘を持っているだろうと思うので、自分の周りの女性達に対しても、その割合の人に対して、ひがんで劣等感を抱えて生きているという事だ。ドロドロです。ネイディーンのようなモンスターが心の中に住んでいる。

そんなに娘が欲しいなら、できるまで頑張ればよかったじゃん、と思われると思いますが、頑張るチャンスを病気で奪われたのです。

息子を産んだ後、次こそは娘を!と思いましたが、その後病気になってしまい、命には全然かかわらないんだけど、妊娠、出産で悪化する為、二人目を作る決心がつかず、又、息子の子育てが毎日楽しくあっという間に過ぎてしまったので、将来の事や自分の事について深く考えずに年を取ってしまい、病気が完治した時は40歳だった。40歳だけど、産めるならもちろん産みたいし、男の子一人じゃ、将来絶対に淋しいから、もう、性別はどっちでもいいから

「もう一人育てよう」

と旦那に言ったら、

「今からじゃ、その子が大学行く時定年で、学費困るからヤダ!」

ときっぱり拒否された。

子どもの声がする明るい家庭よりお金の方が大事なのか、この人は…とすごーくがっかりして、でも、仕方なくて……

でも、そこで簡単に諦めないでいろんな説得方法や解決策を考えて実行してれば、目標は実現できたかもしれない。本当に死ぬほど娘が欲しければ、離婚して、たとえシングルマザーで貧乏しても、養女をもらって、息子と娘との精神的には満ち足りた人生があったかもしれない。そういう死にもの狂いの努力が、覚悟が、ないから、人の事をひがんでばかりの負け組人間になってしまうのかもしれません。

病気のせいで目指していた事を諦めなければならなかった、とか人生がうまくいかなかった、という人は、勿論私だけではないと思う。人生は平等ではない。

平等なら、生まれて何か月で、飢餓や病気のために死んでいく赤ちゃんや、戦争や親からの虐待で死んでいく子ども達と、子どもや孫に囲まれ、安らかな老後を過ごしている人々の両方がいる事はありえない。

生きるという事はこの不平等を受け入れる事から始まるのだろう。

でも、幸せそうな人達の中で暮らしている「自分は幸せではない」と思っている私は頭では不平等を分かっていても、感情で不平等を受け入れられない。

例えば、先生になりたかった男又は女がいるとする、でも何かの障害があったか、病気か何かでなれなかったので、泣く泣く諦めて普通のサラリーマン、又は主婦になったとする、そして、家庭を持ち、その環境で年を重ねて生きていたら、普段は自分の願いがかなわなかったという痛みは忘れているだろう、過去を忘れられるという事は本人は意識してないけれど、「人生は思うようにはいかない」事を受け入れる事ができたという事だと思う。

たまに、先生という生物に会うと思い出すかもしれない。でも、サラリーマンや主婦が先生に会う回数なんて、子どもの学校行事とか、TVのドラマで見るとか、多くても月に10回位だと思う。だから痛みを感じるのは、多くて月に10回だろう。

でも私は、他の女性が娘と一緒にスーパーに行く、どこかへ食事に行く、出産した娘が里帰りしてきた、孫を連れた娘が遊びに来てる、等の光景や話を毎日見たり聞いたりしながら生きている。その度に胸がちくんと痛む。胸が痛む回数が多くて辛くて仕方がない。辛いから頭では不平等を分かっていても感情が耐えられない。

又、アフリカの貧しい村では自分だけじゃなく、周りの人みんなが、不便で大変だから住人はみんな「自分だけ不平等だ」なんて感じなくて、私のように辛くないのではないか、とも思う。いつもそんな風に考えてしまう私は、リアルネイディーンだ。50過ぎたおばさんなのに、17歳の子と同じ精神構造なのだ。しかも、劇的に解決する映画と違って、私のネイディーン気質は、簡単には解決しない。

 

マンチェスター・バイ・ザ・シーは米国の商業映画には珍しく劇的に解決しない作品です。

 

マンチェスター・バイ・ザ・シー』 

 2017年日本公開

監督:ケネス・ロナーガン

脚本:ケネス・ロナーガン

出演:ケイシー・アフレック

         (42歳)

   ミシェル・ウイリアム

         (37歳)

   カイル・チャンドラー

         (52歳)

   ルーカス・ヘッジス

         (21歳)

 


アカデミー主演男優賞受賞『マンチェスター・バイ・ザ・シー』予告編

 

あらすじ 

 ボストンでアパートの修理、便利屋として生計をたてているリー・チャンドラー(ケイシー・アフレック)は怒りっぽく周囲の人とは必要最小限の交流しかしない。

かって故郷のマンチャスター・バイ・ザ・シーで愛する妻と3人の子どもと幸せにくらしてたが、自分の不注意で3人の子どもを焼死させたあまりにも重い過去が、彼をそうさせている。

ある日、その故郷に住む兄が心臓病で急死し、兄の遺言によって兄の息子、16歳のパトリックの後見人に指名される。

葬式の取りまとめや兄の大切な忘れ形見の行く末を任されて、不本意ながらも辛い思い出の残る故郷に一冬滞在し、甥と一緒の生活を過ごしたリーの凍りついていた心はすこしづつ溶かされていく。

3人の子どもを失った妻も、リーを激しく責めたて、精神のバランスをくずしていたが、リーと別れた後、立ち直って再婚し、又子どもを産み育てていた。そして

「もう、恨んでない。激しく責めたててすまなかった」

と、涙を流して伝えてリーの再出発を後押しするが、それでもリーの氷は完全には溶けない。今後もマンチェスター・バイ・ザ・シーに住み続けたいパトリックの為に後見人の自分もそこに住み続ける事はどうしても耐えられない。

パトリックを、亡き兄の友人で、親切で子ども好きな夫婦の養子にしてもらい、兄が用意しておいた養育費をすべて譲り、自分は又ボストンに戻る決心をする。

だが、以前とは違う。リーはパトリックの行く末を見守るという使命=生きる糧を手に入れたのだった。

 この作品は本当に『スイート17モンスター』とは対照的です。

まず、主人公が、表情が生き生きして17歳の色んな顔を見せてくれるネイディーンとは逆に、よく「死んだ魚のような目をしている」と言われるケイシー・アフレックが、そのキャラクターをそのまんま反映させて人生を捨てた男の荒廃した雰囲気を自然に醸し出してます。

そして、こっちの作品こそ、リーに人生の問題を解決してほしい、解決させてやってくれ!と観ている人は誰もが思う流れで、過去を乗り越え、又マンチェスター・バイ・ザ・シーに住む事になる、という劇的な結末は少しも不自然ではないのですが、そういう視聴者の願いを拒んで、実にリアルに、私達の人生と同じように”劇的には解決しない”結末 を見せられます。

”人生はドラマや映画のように劇的には解決しない”

という事を思い出させてくれる、その点では『スイート17モンスター』よりずっと共感できる気がします。

人生の問題は、誰かの一言とか一つの行動でドラマチックに解決などしない。

という”ほんもののドラマ”でした。

解決してくれるのは神の見えざる手なんじゃないか、と自分を顧みて思う事があります。

幸せな事がいっぱいあると、小さな幸せを大切にしなくなるし、若い時の選択肢がいっぱいあって、何でも選べる、何者にもなれる、という時って、逆に1つに決められなくて、いつまでも迷った状態で、自分の幸せはここじゃないどこかにあるといつも思っている青い鳥症候群になっちゃう、少なくとも、私のような欲張りの怠け者はそういう環境では感謝しないし、何もしない。でも、今の私は幸せな事がたくさんないし、選択肢も2つ、又は1つきりしかないような状態だから、その1つに専念せざるをえないし、小さな事にも感謝して(今、病気じゃない事、旦那が真面目に働いてくれるおかげで貧乏じゃない事、仲良くない夫婦でも、寒い夜に鍋を一緒につつける相手がいる事とか)生きていくという「追い込まれてやっと気がついた幸せ」がある。

最近、自分の事を応援してくれてるような言葉に出会って泣いた。

「人は失ったもので形成される。人生は失うことの連続だ。失うことでなりたかった自分になるのではなく、本当の自分になれるのだ」

byアレハンドロ・イリャニトウ

  (映画監督、私と同じ54歳)