映画についてのよけいな事 

練りきり作りましょう!

あなたはあなたのままでいい 

※ 人と違う息子をどう育てたか、書いてますが、鼻持ちならない自慢話になってるので、不快な方は読まないで下さい。 

 

『 坂の途中の家』のネタばれをしてます。  

 

WOWOWで放映中の

『坂の途中の家』が面白かった。

面白いだけじゃなく、胸をぐさりと刺してくる。

(ただ、最終回で、主人公 の旦那が、自分がモラハラをていた事に気づいたのか、気づかなかったのか、気づいたとしたら、治そうと思ったのか、が分かる描写がなく、このドラマの根幹が誤魔化されて終わったので、カタルシスを感じられなくて、名作だなぁと思えず、残念だった)

 

 

 

『坂の途中の家』

 (4/27~6/1まで WOWOWプライムにて放映)

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 3歳の娘を育てる専業主婦の主人公  里沙子は、 旦那から、

「普通は~だろ」

とか、

「普通の母親は子どもなんかすぐ泣きやませられるだろ!」

とか

「俺はいつも普通の事言ってるだけだ」

など、常に自分が普通で、お前は自分より劣ってるんだ、というメッセージを送られて生きていて、旦那の親も同じ様に、自分達の価値観、自分達のやってきた子育てが正しくて、それと異なると、即ダメな母親と認定するような人達。

この人達、本当に憎たらしくて、喋り方や表情だけ見てると、旦那は優しくて保守的な、どこにでもいそうな日本人夫だし、姑も、保守的だけど、本当に人が良さそうなおばあちゃん。だけど、してる事はモラルハラスメントという……

例えば、里沙子 が、   

「おっばいの出が少し悪いので、ミルクを足した方がいい」

保健婦に言われたので、ミルクをあげようとすると、姑が、

「母乳を飲まないと頭が悪くなるのよ」

「吸わせてれば自然に出てくるようになるわよ、母親の身体はそういう風にできてるんだから」

と悪気は全くない顔で、お前はダメだニュアンスの発言を連発する。

里沙子は  母乳の出が良くなると言われたら、山芋を必死になって食べるし、チョコレートや生クリームは母乳の出に悪いと聞くと、それを断つ。そんなふうに周りが押し付ける良い母親像になりきろうと、必死になってしまう。

普通なら、「お姑さんのいう事なんて気にしなくていいのよ」と味方してくれるはずの実の母親も、素直に娘を愛せない精神的に問題ありの母親なので、皆から否定されて、ダメ母にされ、精神がどんどん衰弱していき、結果、子どもも可愛く思えなくなる。

そんな主人公と    同じパターンで精神を疲弊され、(故意ではないが)娘を死なせてしまい、逮捕された被告人  安藤水穂  の裁判が 進む のと並行して、

その裁判の補欠裁判員に指名された  里沙子の、水穂と重なる苦悩が明かされていく。       

 

お節介な舅が、里沙子が子育てが上手くいってないから、と児童相談所に個別訪問を依頼したのがきっかけで、里沙子とかかわり、助けようと奔走してくれる児相の職員によって、

夫がしてる事はモラルハラスメントで、夫が、自分をコントロールして支配下に置いておきたいのだと、里沙子は気づかされる。

でも、里沙子自身にも問題がある事が分かる。

モラハラされると、それを100%言われるままに吸収してしまう。

自我がないのだ。

普通じゃない  とか、ダメな母親という言葉に異常に敏感で、人が押し付ける価値観に何の疑問も持たず、染まってしまう。

だが、最後はその間違いに気づく。

集まった裁判員達の前で、

自分も子育てに苦しみ、疲れ、被告人と同じような生活だった事。それは、周りが言う事に振り回され、周りの人間の価値観に自分を合わせようとしていたからだと、

「なぜなら、誰かの価値観に従って生きるのがとても楽だったから」

と告白する。

 

このドラマは、私にも衝撃的な事実を気づかせてくれた。

私の夫もモラハラ夫だという事を。

 

普段は、亭主関白ではなく、むしろ優しい方で、私が風邪などで寝込んでる時に、

「俺の飯はどうなるの?」

なんて言わない。

「作らなくていいよ」

と言ってくれたり、自分で何か買ってくる時は、必ず私の分も買ってきてくれる。

そんなだから、私の実家での評判もすこぶるいいし、職場や外では、

[常識的でいい人]

で通ってる。

でも、あの時のあれって、モラハラだったんだ、と思い当たる事が沢山ある。

例えば、20年前、私はコンビニの駐車場に車を止めようとして、あやまって、店舗に突っ込んでしまった。車止めのおかげで、店内にまで突っ込む事はなく、故に怪我人もなく、ガラスを割っただけで済んだのだが、車がハマってしまい、エンジンをかけても自分で移動させられなかった為、旦那に電話して、会社を抜けてきてもらった。

その時の私に対する旦那の第一声が、

「土下座して謝れ!」

だった。

むろん、旦那に対してではなく、そのコンビニの店主に対しての意味だった。

言われたように、土下座したかどうかは忘れてしまったけど、

[この人って怒ると別人みたいになるんだ]

とか、

[確かにお店にものすごい迷惑かけてしまった、勿論、私が悪い、でも、土下座しなきゃいけない程悪い事したんだろうか?

しかも、土下座しろ、と怒ってるのは、被害者本人ではなく、関係のない私の夫なのだ]

と、とても違和感を感じた。

でも、当時は、モラルハラスメントなんて言葉は普及してなかったので

それ以上考えなかった。

 

普段でも、4、5年前までは、旦那の言った事や、考え方と反対の事を私が言うと、ぷいっと、怒って部屋を出ていってしまい自分の部屋に閉じこもって、ご飯も食べないで過ごし、2、3日は、口もきかない時がよくあった。

昔は、

[ヤダヤダ! いい年して子どもじゃん]

位にしか思ってなかったが、

こういう行動も、他人を自分の価値観で支配できないと、凄くヤダ、という性格からきてるんじゃないだろうか?

この、自分のものさしと違う考え方に遭遇すると耐えられない、という人達って結構いる……いい年した大人でも、いや、大人だからこそ変な自信があって、

[自分が正しくて相手が間違ってる]

と考える人が多いと思う。

 

みんなちがってみんないい

 

21世紀になってから教育現場で言われ始めたこのフレーズ、これは、金子みすゞさんという大正時代の女性詩人の詩の一部です。

 

『わたしと小鳥と鈴と 』

 

わたしが両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴はわたしのように、
たくさんなうたは知らないよ。

鈴と、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。

 

 

出典:イソラボ 

 

昭和の学校では、集団行動の中からはみ出してしまう子は問題児でした。

でも、平成になり、21世紀に変わった頃から、発達障害に対する理解が広がったのと並行して、

【集団行動が苦手だからと言って、即、叱咤するのは適切な指導方ではない】

みたいな、個性を大切にしてあげましょう、みたいな指導法も取りいれられてきて、日本的な集団行動からついはみ出してしまう子どもの親には、[みんなちがってみんないい]という呪文と共に、大分、住みやすくなった感があります。

その21世紀らしい価値観のこの詩を書いた金子みすゞさん、どういう方だと思いますか?

社会より自分や自分の人生を大切にする西欧諸国の女性達のような、いかにも自由な女性だと思いますか?

この人は、自分の娘の幸福の為に自殺した人です。

子どもの為に自分の命を捧げたのです。

  金子みすゞ

金子 みすゞ(かねこ みすず、1903年明治36年)4月11日 - 1930年昭和5年)3月10日)は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した日本童謡詩人。本名、金子 テル(かねこ テル)。

大正末期から昭和初期にかけて、26歳で死去するまでに500余編もの詩を綴ったとされる。1923年大正12年)9月に『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』の4誌に一斉に詩が掲載され、西條八十からは「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛された。

  

生涯[編集]

山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)の生まれ。郡立大津高等女学校(現・山口県立大津緑洋高等学校)卒業。父は、妻(みすゞの母)の妹の嫁ぎ先である下関書店・上山文英堂の清国営口支店長だったが、1906年明治39年)2月10日、みすゞが3歳のときに清国で不慮の死[注 1]をとげる。劇団若草創始者である上山雅輔(本名:上山正祐)は彼女の実弟であるが、幼くして母の妹(みすゞにとっては叔母)の嫁ぎ先である上山家に養子に出されている。叔母の死後、正祐の養父とみすゞの母が再婚したため、みすゞも下関に移り住む。同時に、みすゞと雅輔は実の姉弟でありつつ、義理の姉弟の関係となる。

1926年(大正15年)、叔父(義父)の経営する上山文英堂の番頭格の男性と結婚し、娘を1人もうける。しかし、夫は正祐との不仲から、次第に叔父に冷遇されるようになり、女性問題を原因に上山文英堂を追われることとなる。みすゞは夫に従ったものの、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、後ろめたさからかみすゞに詩の投稿、詩人仲間との文通を禁じた。さらにみすゞに淋病を感染させるなどした事から1930年昭和5年)2月に正式な離婚が決まった(手続き上は成立していない)。みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一度は受け入れたが、すぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求。夫への抵抗心から同年3月10日、みすゞは、娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を遺し服毒自殺[注 2]、享年28〈数え年〉、26年の短い生涯を閉じた。法名は釈妙春信尼[2]

 出典:ウィキペディア

 

当時の社会の慣習 であった父権優先に従って、みすゞの夫は、ただ、自分のプライドや威厳を守りたい為だけの理由で、娘、ふさえを引き渡せ、と要求します。でも、みすゞさんは、どうして、抗議の自殺をしてまで、娘を夫に渡したくなかったのでしょう。

みすゞさんが思った事

ふさえは、あの人と暮らして幸せになれるのだろうか。

あの人がふさえに与えられるのは、お金だけ。

心の糧ではないの。

私はふさえを心の豊かな子に育てたいの。

でも、どうしたら連れていかれないですむだろうか。

みすゞは、いろいろと考えたに違いない。そして。ついにあることを決心した。

自分のいのちを娘のために使うこと、であった。

出典:『童謡詩人

    金子みすゞの生涯』

    矢崎節夫著

    JULA出版局発行

 

この人のもう一つの代表的な詩

 

『大漁』

 

朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ。

浜はまつりの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう。

 出典:イソラボ

 

この方は、何も、食べ物にする為に、動物や魚を殺すのはかわいそうと訴えてる訳ではないです(と思います)

この世は、笑っている人の背中の向こうには必ず泣いてる人がいるんだよという事を伝えたいんだと思います。

そういう考え方ができる、それ故に天才詩人と言われてて、生きていた大正時代でも、10年に一度のすごい才能みたいに扱われていました。それを使えば、自分の未来は前途洋々だったはずなのに、男尊女卑だった時代の封建制度によって、健康を奪われ、大切な我が子が不幸な環境で育てられそうになり、それを阻止する為に、抗議の自殺を選んだのです。

 

私の母親は、勿論、偉大なみすゞさんとは比べようもない程、普通of普通の、日本のお母さんです。

でも、容姿もよくない、頭もよくない、運動神経も良くない、性格がいいわけでもない(むしろ悪い)

ないないづくしの私に、

「いい子にしてないとダメでしょ!」

とか

「もっと勉強しなさい」

とか

「お姉ちゃんだから我慢しなさい」

とかの注文を何もつけず、

「あなたはあなたのままでいい」、そういう目でいつも私を見てくれました。

そして、唯一、私が他の子より進んでた事、読書が凄く好きだった事、絵が上手だった事をもの凄く褒めてくれました。

そのままの自分を肯定してもらって、~しないと愛してもらえないという気持ちを一度も感じる事なく育った私は、その大きな愛情のお陰で大器になった……わけでは全くない

平々凡々な、というより平々凡々でさえない、厳しく色々言われて育たなかったので、すぐに怠けちゃう、人から誉められないとやる気がでない、というぐうたら人間です。

でも、子育てがとても楽しかった。

夫はモラハラ体質だし、息子は他の子と全然違う子で、そのままいったら、私も『坂の途中の家』の主人公と同じ精神状態になる所だったけど、ならなかった。

みんなちがってみんないい、という家風で育てられた私には、世間的な¨普通¨とか、夫の狭い物差しから発せられる価値観なんて¨へのかっぱ¨だった。

息子は大変な子どもだった。何故なら、1・5歳検診の時に、保健婦さんからADHDの疑いあり、といわれ、カウンセリングを組まされた程、じっとしてない豆ったい子だったし、生まれた時から自我が異常に強くて、生後1週間の時、ホルスタインのようにはち切れそうな私の乳を近づけても、おっぱいを飲んでくれない、無理に口に入れようとすると大泣きするので、

「じゃあ、好きにしなさい!」

と怒ったら、言葉が分かるはずないのに、その一言以来、無しゃぶりついて飲むようになったという信じられない事が起きた。なので、世間でよく心配されるらしい【おっぱいを飲まなくて困る】という悩みとは反対の、飲み過ぎて、太ってしまって困る、という悩みを抱えてしまった。

1歳半過ぎて、オムツをとる時も、

「トイレ行こーか?」「このオマルでおしっこしてみよう」

とか、最初は優しく言ってみたが、全く心が動いてないのが見てとれた。その頃には、この人は、人から「あーしなさい、こーしなさい」と言われると、絶対にやりたくない性分だと悟っていたので、反対に、ほっといて、わざと声かけしない事にしたら、声かけをやめた日には、一人でオマルに座って、オムツが取れてしまった。

とにかくじっとしてられないので、公共交通機関には乗せられない、市役所等の公共の場所、たとえ、ファミレスでも、レストランになんて連れてはいけないから行かない。

毎日、ベビーカーで公園へ連れていって、9:00~15:00頃までそこで走り回らせて疲れさせる。公園にいる間も、ほっとくと道路に飛び出したり、他の子にちょっかいをだして本人はいじめるつもりはなくても、結局相手が怖がって泣いちゃうので、常に彼の1歩後ろをついて回って、トラブル回避していた。

住宅街をベビーカーに乗せて歩いてる時は、何か興味があるものを見つけると、どうしてもそこへ入って行きたがる。ブランコが置いてある赤の他人の家の庭に入りたがってしょうがない時は、そのお宅の方に、

「私がそばについてて、壊したり、迷惑かけないように見張っているので、少し遊ばせてもらってもいいですか?」

とお願いして、ブランコを使わせてもらった。

多分、都会でやったら、警察に通報されるレベルだろうけど、のどかな田舎なので、問題にもならず、そうさせてもらう事で、2歳の脳では、何故ダメか、やっちゃいけないのか、理解出来ない事も無理に禁止しないから、息子も母親もストレスがなかった。

子どもの為に外で自分が頭を下げればいいなら、いくらでも頭を下げて、その年齢の脳ではダメと言っても理解できない事は怒らなかった。

自分や他人に危険な事と人としてやってはいけない事以外は。

その後も小学生になった息子が宿題をやったかどうか、一切監視しないでほったらかしてたので、息子は宿題を、朝、学校へ行ってから、10分程で仕上げて出してたようです。

先生に叱られて、痛い目にあえば、改心して、親に言われなくても家で真面目に宿題してくだろうと思ってたら、先生も気がつかなかったらしい。

そういう所が妙に世渡りが上手い。

我が子ながら尊敬する。

世間の普通のお母さん達からしたら、

「尊敬してる場合じゃないでしょう」

と、軽蔑されるだろうが、私は、

[小学生の時は勉強より遊び]

と思ってて、

[勉強というのは、本人が自分からやる気になってやらないと、できるようにならない]

とも、そして、

[親から叱られないとやらない程、勉強が嫌いなのに、凄い我慢して、イヤイヤやって、いい成績取ってエリートになっても、それは本来の自分じゃないから、幸せじゃない]

と思っている。

何故なら、私はガリ勉して、そこそこいい大学に入り、更に死ぬ程勉強して、狭き門だった特別地方公務員に受かった。

世間的には、勝ち組に分類されるだろう公務員だったけど、幸せを感じなかった。

この時、勝ち組の中にいたって、経済的に安定してたって、自分の好きな事してなきゃちっとも幸せじゃない、と気がついたから。

そんな母親の元に生まれてきた息子は、なので、中学にはいるまで夏休みと冬休み以外は家で宿題をやりませんでした。

「勉強しなさい!宿題やったの」

とガミガミ言わなくていいので、ここでもストレスはたまりませんでした。

モラハラ体質の夫が、子どもがあまり好きではないので、私の子育ての仕方とか、教育方針に口出ししてこなかった事も幸いでした。

そんなストレスがない生活だったからだと思う。

小学5年生の時、クラス中にいじめられてる男の子がいて、その子に対して絶対にいじめには加わらず、普通に接してくれる5人の子がいて、その中にうちの子も入っている、だから感謝している、といじめられている子のお母さんから言われた。   

  その時程、この子を育てて良かったと思った事はない。息子の事で1番自慢できる事がそれだ。

本当は、加担しないだけじゃなくて、いじめられてる子を助けてあげないとダメだと思うが、助けてあげて、自分も一緒にいじめられるような人になれる大器じゃないので仕方ない、それに親の私自身が、自分が犠牲になっても人を助けてあげるような美しい心を持ってないのだから、子どもにそれを要求するなんてできない。

 

幼稚園に入る前は、これから毎日のように先生から電話がかかってきて、毎日、どこかの家に菓子折を持って謝りに行かないとならないんじゃ、と覚悟したが、予想に反して幼稚園から高校卒業までの間、先生から呼び出しがあったのは1回だけだった。(女の子や優等生の子の親はその1回もないのだろうけど)

オンとオフの使い分けがうまいらしく、学校へ行くと、先生の言う事を素直に聞く子に変身してたらしい。

「勉強しろ」

と言わずに育ててしまった事が、息子の将来の様々なチャンスを狭めてしまったのでは?と言われれば、その通りで、勉強も努力も嫌いな、上は目指さない子になってしまった。

でも、ここだけは頑張らないと、という時は、火事場の馬鹿力のようなやる気を発する。高校も大学進学も就職も、自分でさっさと身の丈に合った所を選んできて、そこで平々凡々に自分の力で生きている。

私は上昇思考が強く、勉強も好きだったが、息子は違った。この自分とは違う生き方が彼にとって1番幸せならそれでいいと思う。みんなちがってみんないいのだ。

あなたはあなたはのままでいい、そう親に言われて育った事、そう言って子どもを育てた事を思い出したら、運が悪くて一人しか育てられなかった事を差し引いても、私の人生って、実はとても幸運に恵まれてるじゃんと気がついた。もっともっと感謝しなければと思う。