アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞ノミネートの3作品
今年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞にノミネートされている作品を3本観ました。
『ストロング・アイランド』
『イカロス』
『アレッポ 最後の男』
ネタをばらして感想を書かないと何か説得力に欠けるような気がして、
今回もネタばれ付きの感想です。すみません。
『ストロング・アイランド』
2017年 Netflix配信
監督・ヤンス・フォード
米国、ニューヨークのロングアイランドの黒人専用地区に住む家族の、殺人事件に巻き込まれ、兄を白人に撃たれて殺された女性監督がほぼ全編を身内へのインタビュー内容で作ったドキュメンタリーです。
事件そのものは1992年に起きた。25年前の事件を何故今になって作品に?と不思議に思ったのだけど、逆にその当時の事を今は亡くなっている母親が鮮明に語っている映像を彼女が今までずっと保管してきたという事に計り知れない重さを感じました。
彼女の兄ウイリアムがトラブルで揉めてた白人に銃で撃たれ、公平かつ厳密な捜査なしに殺人事件を正当防衛で不起訴にされたのですが、妹が熟読した検視報告書の内容や、現場にいて、ウイリアムが撃たれる瞬間以外の白人とウイリアムのやり取りを見ていた友人の証言からはとても正当防衛とは思えません。不起訴が決定された大陪審の審査に出席した母親によると、起訴か不起訴かを決定する陪審員は23人全員白人で、母親が証言台で話す事を、雑誌を読んだり、パズルをしたりしながら聞いていた、というよりも聞く気もない感じだった、殺されたのが黒人だったゆえに。
この事件については被害者側の証言のみで作られてるので内容が100%真実とは言い切れないのかもしれませんが、この大陪審についてだけでも明らかに差別だと思いました。恐ろしいのはこの行為を差別してると気がつかない、又は差別とは分かっていても、それを異常な事だと思わない白人の審判員達、警察関係者達です。
自分達と違う民族を見て、自分達より劣っているという感覚は持たない人が大多数の日本人にとって、この「無意識に差別したくなる」気持ちは理解できない感情だと思います。
近年、日本でヘイトスピーチが問題になっていますが、例えば韓国人にたいするヘイトスピーチは個人的には、あれは今韓国との間で政治的な問題、領土の問題でけんかしてる状態なので、そこからくる憎しみで起きるのでは、と思います。現代の法治国家では許されない行為ではありますが、動機は理解できる気がします。
日本人が、どっちの民族が優れてるか、どっちが上か下か、という意識を持たないのは単一民族で構成され、何故か無宗教な人ばかり、土着の宗教は、他宗教に寛容な仏教と神道で宗教間の対立もなく、それによる憎しみ合いもないからではないでしょうか?
私は世界中の争いの半分は宗教が原因だと思っています。
現在でも人々の生活を差別し、下層の階層に生まれた人々を苦しめているインドのカースト制度もヒンドゥー教の教えからきています。
『イカロス』
2017年 Netflix配信
監督:ブライアン・フォーゲル
スポーツ競技におけるステロイド使用に関するドキュメンタリー。監督はブライアン・フォーゲル。自転車選手でもあるフォーゲルは、オートルートのトレーニング中にパフォーマンスをあげる薬物を使用することを決め、アンチ・ドーピング検査をパスできるかを試みようと考えた。フォーゲルは、当初 UCLA のオリンピック分析研究所の創始者であるドン・カトリンにアドバイスを求めた。カトリンは、周囲からの評判を懸念し、実験への関与はよくないと考えた。 代わりにロシア反ドーピング機関所長のグリゴリー・ロドチェンコフを紹介し、彼がドーピングシステムの管理に協力した。ロドチェンコフの手を借り、フォーゲルはホルモン注入と検査時に利用する尿サンプルを使ったシステムを開始した。
フォーゲルとロドチェンコフの関係は短期間で近づいた。実験中にはロドチェンコフが、ロシア選手がパフォーマンスを向上させる薬物を検出することなく使用するのを助けるために独自のシステムをロシアに持っていたことが明らかになった。実験の最中、2014年ソチオリンピックにおいて、ロシアによる国家主導のでドーピングプログラムが実施されたことがドイツの公共放送によって報じられた。その報道の中で、重要人物とされたロドチェンコフは、ロシアから命を脅かされる存在となり、フォーゲルの助けを借りてアメリカへ亡命。そして、カメラの前で、尿サンプルの交換などロシアが行ったドーピングについて証言を行っていく。
出典:ウイキペディア
これは監督のブライアン・フォーゲルやプロデューサーにとって、製作者冥利につきる歴史的な作品になってしまったのではないでしょうか?
個人的にはこれがオスカーを獲って、監督達が壇上に立ち、どんなコメントをするか、ぜひ見てみたいです。
あまりにスケールの大きな”瓢箪から駒”が起きてしまい、ロシアという大国の大きな犯罪が国際社会に公表され、その中心人物のロドチェンコフ氏は今も命の危険にさらされ米国の証人保護プログラムの元に暮らしています。
監督はじめ製作関係者も自分が暗殺されないか、心配にならないのだろうか?と思ってしまいます。
ロドチェンコフ氏によると、プーチン大統領も全部知っててドーピングの指示を出していたそうです。プーチン大統領はそれを完全に否定していますが、この作品の内容が100%真実だとしたら、堂々と、嫌われる事をやって嫌われるトランプ大統領より法の目をくぐってばれないように嫌われる事をするプーチン大統領の方が、ずっと怖いなぁ、と思いました。
でも、結局その卑怯な行為はばれて、ロシアという国としてオリンピックに参加する事はできなくなったので、国としてメダルを量産し、国強を見せしめる為にやった事が最も皮肉な結果になってしまったわけですね。
余談ですが、この作品を見ると、アマチュアスポーツではドーピングは違反にはならない=ドーピング検査をしないのでやっていてもばれないという事に気づきます。
趣味のバドミントンでいつも勝てない男性プレイヤー達に勝つ為にドーピングしようかなぁ…とちょっと悩みました。
『アレッポ 最後の男』
2017年5月NHK BS1放映
監督:フィラス・ファイヤド
共同監督
スティーン・ヨハネッセン
ハサン・カッタン
これは去年アカデミー賞短編ドキュメンタリー賞を受賞した
『ホワイト・ヘルメットーシリアの民間防衛隊ー』
と同じ題材(アレッポに住む素人の救急救命隊員達)を反対の切り口で撮っていて、その為にこっちの映像で映っているホワイト・ヘルメットの男達の方がずっとリアルで『ホワイト・ヘルメット』の方が、嘘っぽく感じます。
『ホワイト・ヘルメット』ではインタビューに答える男達全員が、自分達は平和主義者で、敵も味方も関係なくシリアの内戦の現場で、怪我をしてる人や命の危険のある人を助けている、とか、命を落としたり、怪我をする子ども達を見ると胸が痛む、みたいな事を口をそろえて言います。清廉潔白な雰囲気を押し出しながら……わざわざそういう事を言わせる事じたい、やらせの匂いがぷんぷんします。
それに比べ、『アレッポ 最後の男』では、ホワイト・ヘルメットの隊員達は反アサドの集会に参加し、「アサド政権と最後まで戦うぞ!」とこぶしを振り上げるシーンから、一人の隊員が、他の隊員と一緒にこのままアレッポで、アサド政権に抵抗し続けるよりも、妻子の安全のため仲間を捨て家族でトルコに亡命しようか、と悩む所まで、ホワイト・ヘルメットの隊員達をそのまま美化しないで映しとってます。本当に人間らしくてリアリティがあります。この作品を観ると、なんで『ホワイト・ヘルメット-シリアの民間防衛隊』みたいのがアカデミー賞とれたんだろう?と思ってしまいます。
ラストに見せられる衝撃の結末も究極のリアリティです。ドキュメンタリーの真骨頂だと思います。
NHK BS1って他にも中味の濃い優れたドキュメンタリーを放映してくれます。
知識欲を満たし、感性を育ててくれる本当にありがたいチャンネルです。
モンスターを飼う54歳
今回はどす黒い私の心の中をぶちまけました。
なので、汚い事、不道徳な事、誰かの自分勝手な言い分やくだらない悩みは聞きたくないという方は読まないでください。
(せっかくクリックして下さったのにすみません)
※『スイート17モンスター』と
の完全ネタばれをしています。
とってもセンスのいい邦題がついたアメリカ映画を観ました。
『スイート17モンスター』
2017年日本公開
監督:ケリー・フレモン・クレイグ
脚本:ケリー・フレモン・クレイグ
(21歳)
(56歳)
(52歳)
ブレイク・ジェンナー
(25歳)
あらすじ
ネイディーン(ヘイリー・スタインフェルド)は子どもの頃はいじめられっ子だったが、クリスタという親友ができて以来二人で楽しく過ごしてきた。
それって私からしたら十分リア充だと思うし、顔もヘイリーが演ってるから美人です。だからイケてない女子というには説得力に欠けるのだが、暗くてネガティブな17歳の女の子が改心するという話なので、イケてない女子高生の設定になっている。
なので、ネイディーンは、自分は不幸だと思っている。その理由が、出来の良すぎる、そして出来が良すぎてイヤミな一つ違いの兄と比べられて、
自分が「出来の悪い子、ひねくれためんどくさい子」と思われてるのがとても嫌だから。
でも、ひねくれているのは事実で、ひねくれてるけど、変に頭が良くて、変にプライドが高いから温厚なクリスタ以外の友人と仲良くなれないのだ。が、17歳という若さではその自分のどこが悪いかが分からず、自分が嫌い、とは思っているが、直す気はない。
母、兄、学校の先生、そしてネイディーンに好意をもってくれてる隣の席の男子に意地の悪いバカにした態度をとったり、”勝ち組の人はみんな敵”みたいな目で世の中を見てる。
だが、唯一の心のより所だったクリスタが大嫌いな兄と恋仲になってしまう。そこからネイディーンの本当の地獄が始まる。
クリスタに「兄と私のどっちを取るか決めて」と問い詰め、クリスタに「どっちかなんて選べない」と言われると怒って絶交宣言し、本当に世界でひとりぼっちになって、いよいよ17歳のモンスターの暴走状態に突入。だが、嫌っていた兄の一言でころっと改心し、問題はあっけなく解決する。
ネイディーンから超リア充で苦労なんか何もないと思われていた兄のダリアンは、暴走の果てに身も心もボロボロになったネイディーンがいつも心を許して愚痴を聞いてもらっている学校の歴史の先生の家に身を寄せてると、ネイディーンを心配する母親から頼られてネイディーンを連れ戻しに、しかもクリスタも一緒に連れてやってくる。そして
「家庭が複雑だから遠くの大学へ行くのはあきらめた。癒してくれる彼女はいるけどそれが妹を苦しめてる」
と、”自分も苦労してるんだ”告白をして、それを聞いたネイディーンが、兄も苦労してるんだ、と気づき、ひねくれて、みんな嫌い、自分だけ不幸、と思う気持ちがつきが落ちたように消える。
でも、成績優秀、スポーツも優秀、家庭では母に頼られ、学校でも人気者で、更に好感度UPを目指してマッチョ体型を極めようと筋肉増強剤を飲もうとするような若者が口では苦労してる、と言っても、実際はそんなに苦労してないだろ、大げさにいってるだけじゃない?と思ったし、ネイディーンを連れ戻しに来るのに、必要もないのにクリスタを車に同乗させてきて、ネイディーンが一番見たくない”兄貴とクリスタが一緒にいる所”を無神経に見せちゃっているのだ。私だったら、クリスタが一緒に来たのを見たら「あんたには関係ないでしょ、何でここにいるの?」って更に憎らしくなって、逆上して、兄の”自分も苦労してるんだ”告白なんて素直に聞けないと思うんだけどなあ、そういう無神経ないい子ちゃんだから兄が嫌い、なんだろうな……とも思ったし。
そういうわけで、主人公の問題が、劇的に、安易に解決してしまう青春映画だった。日本ではそういうドラマも驚かないけど、外国の青春映画で、こういう安易に問題が解決する作品って、最近では珍しいんじゃないかな、と思った。
ただ、学校内カースト最下位のイケてない、そしてこじらせ女子のネイディーンの思考と行動は実にリアルでYahoo!映画や映画.comのレビューサイトでも、
「昔の自分を思い出す」というコメントが多い。
だが、私の場合は昔どころか今の自分を見ているみたいだ。
東京に就職した一人息子とは年に4日位しか会わない。お盆と正月に頼んで帰ってきてもらう。メールはしないし、電話は年に10回位、必要事項だけ言い合って1分以内で終わる。大学入学前、家にいる時も、食事に行ったり、スーパーに一緒に行ったりするのは半年に1回位だったし、無口なタイプなので、話をする時は、こっちが余計な事や不必要な事をべらべらしゃべってもうざがられるので、同性と話す時の三分の一の時間で終わらせていた。それでもいてくれたから今程淋しくはなかった。
【娘を産んでその子が大きくなったら友達親子になって買い物や旅行やグルメを一緒にする】
そう思って結婚した私。努力なんてしなくても当たり前のように娘のいる母親になれると思っていた私は、スーパーで娘を連れたお母さんを見ると、いつも、その娘が幼児でも、高校生でも、赤ちゃんを抱っこしたヤングミセスでもとにかく”娘がいる女性”に対して、「いいなぁ、私と違って幸せな側にいるんだなぁ」と思う。仲のいい友人や長年の知人に対してはもう何も感じないが、初めて会った人や最近親しくなった女の人に娘がいることが分かるとがっかりする。「ああ、この人にも娘がいるのか…」と。
普通の女性が、特に努力をしないで手に入れているものが私には手に入らなかったとひがむ。
多分、世界中のお母さんの三分の二位の人が娘を持っているだろうと思うので、自分の周りの女性達に対しても、その割合の人に対して、ひがんで劣等感を抱えて生きているという事だ。ドロドロです。ネイディーンのようなモンスターが心の中に住んでいる。
そんなに娘が欲しいなら、できるまで頑張ればよかったじゃん、と思われると思いますが、頑張るチャンスを病気で奪われたのです。
息子を産んだ後、次こそは娘を!と思いましたが、その後病気になってしまい、命には全然かかわらないんだけど、妊娠、出産で悪化する為、二人目を作る決心がつかず、又、息子の子育てが毎日楽しくあっという間に過ぎてしまったので、将来の事や自分の事について深く考えずに年を取ってしまい、病気が完治した時は40歳だった。40歳だけど、産めるならもちろん産みたいし、男の子一人じゃ、将来絶対に淋しいから、もう、性別はどっちでもいいから
「もう一人育てよう」
と旦那に言ったら、
「今からじゃ、その子が大学行く時定年で、学費困るからヤダ!」
ときっぱり拒否された。
子どもの声がする明るい家庭よりお金の方が大事なのか、この人は…とすごーくがっかりして、でも、仕方なくて……
でも、そこで簡単に諦めないでいろんな説得方法や解決策を考えて実行してれば、目標は実現できたかもしれない。本当に死ぬほど娘が欲しければ、離婚して、たとえシングルマザーで貧乏しても、養女をもらって、息子と娘との精神的には満ち足りた人生があったかもしれない。そういう死にもの狂いの努力が、覚悟が、ないから、人の事をひがんでばかりの負け組人間になってしまうのかもしれません。
病気のせいで目指していた事を諦めなければならなかった、とか人生がうまくいかなかった、という人は、勿論私だけではないと思う。人生は平等ではない。
平等なら、生まれて何か月で、飢餓や病気のために死んでいく赤ちゃんや、戦争や親からの虐待で死んでいく子ども達と、子どもや孫に囲まれ、安らかな老後を過ごしている人々の両方がいる事はありえない。
生きるという事はこの不平等を受け入れる事から始まるのだろう。
でも、幸せそうな人達の中で暮らしている「自分は幸せではない」と思っている私は頭では不平等を分かっていても、感情で不平等を受け入れられない。
例えば、先生になりたかった男又は女がいるとする、でも何かの障害があったか、病気か何かでなれなかったので、泣く泣く諦めて普通のサラリーマン、又は主婦になったとする、そして、家庭を持ち、その環境で年を重ねて生きていたら、普段は自分の願いがかなわなかったという痛みは忘れているだろう、過去を忘れられるという事は本人は意識してないけれど、「人生は思うようにはいかない」事を受け入れる事ができたという事だと思う。
たまに、先生という生物に会うと思い出すかもしれない。でも、サラリーマンや主婦が先生に会う回数なんて、子どもの学校行事とか、TVのドラマで見るとか、多くても月に10回位だと思う。だから痛みを感じるのは、多くて月に10回だろう。
でも私は、他の女性が娘と一緒にスーパーに行く、どこかへ食事に行く、出産した娘が里帰りしてきた、孫を連れた娘が遊びに来てる、等の光景や話を毎日見たり聞いたりしながら生きている。その度に胸がちくんと痛む。胸が痛む回数が多くて辛くて仕方がない。辛いから頭では不平等を分かっていても感情が耐えられない。
又、アフリカの貧しい村では自分だけじゃなく、周りの人みんなが、不便で大変だから住人はみんな「自分だけ不平等だ」なんて感じなくて、私のように辛くないのではないか、とも思う。いつもそんな風に考えてしまう私は、リアルネイディーンだ。50過ぎたおばさんなのに、17歳の子と同じ精神構造なのだ。しかも、劇的に解決する映画と違って、私のネイディーン気質は、簡単には解決しない。
『マンチェスター・バイ・ザ・シー』は米国の商業映画には珍しく劇的に解決しない作品です。
2017年日本公開
監督:ケネス・ロナーガン
脚本:ケネス・ロナーガン
出演:ケイシー・アフレック
(42歳)
ミシェル・ウイリアムス
(37歳)
(52歳)
ルーカス・ヘッジス
(21歳)
アカデミー主演男優賞受賞『マンチェスター・バイ・ザ・シー』予告編
あらすじ
ボストンでアパートの修理、便利屋として生計をたてているリー・チャンドラー(ケイシー・アフレック)は怒りっぽく周囲の人とは必要最小限の交流しかしない。
かって故郷のマンチャスター・バイ・ザ・シーで愛する妻と3人の子どもと幸せにくらしてたが、自分の不注意で3人の子どもを焼死させたあまりにも重い過去が、彼をそうさせている。
ある日、その故郷に住む兄が心臓病で急死し、兄の遺言によって兄の息子、16歳のパトリックの後見人に指名される。
葬式の取りまとめや兄の大切な忘れ形見の行く末を任されて、不本意ながらも辛い思い出の残る故郷に一冬滞在し、甥と一緒の生活を過ごしたリーの凍りついていた心はすこしづつ溶かされていく。
3人の子どもを失った妻も、リーを激しく責めたて、精神のバランスをくずしていたが、リーと別れた後、立ち直って再婚し、又子どもを産み育てていた。そして
「もう、恨んでない。激しく責めたててすまなかった」
と、涙を流して伝えてリーの再出発を後押しするが、それでもリーの氷は完全には溶けない。今後もマンチェスター・バイ・ザ・シーに住み続けたいパトリックの為に後見人の自分もそこに住み続ける事はどうしても耐えられない。
パトリックを、亡き兄の友人で、親切で子ども好きな夫婦の養子にしてもらい、兄が用意しておいた養育費をすべて譲り、自分は又ボストンに戻る決心をする。
だが、以前とは違う。リーはパトリックの行く末を見守るという使命=生きる糧を手に入れたのだった。
この作品は本当に『スイート17モンスター』とは対照的です。
まず、主人公が、表情が生き生きして17歳の色んな顔を見せてくれるネイディーンとは逆に、よく「死んだ魚のような目をしている」と言われるケイシー・アフレックが、そのキャラクターをそのまんま反映させて人生を捨てた男の荒廃した雰囲気を自然に醸し出してます。
そして、こっちの作品こそ、リーに人生の問題を解決してほしい、解決させてやってくれ!と観ている人は誰もが思う流れで、過去を乗り越え、又マンチェスター・バイ・ザ・シーに住む事になる、という劇的な結末は少しも不自然ではないのですが、そういう視聴者の願いを拒んで、実にリアルに、私達の人生と同じように”劇的には解決しない”結末 を見せられます。
”人生はドラマや映画のように劇的には解決しない”
という事を思い出させてくれる、その点では『スイート17モンスター』よりずっと共感できる気がします。
人生の問題は、誰かの一言とか一つの行動でドラマチックに解決などしない。
という”ほんもののドラマ”でした。
解決してくれるのは神の見えざる手なんじゃないか、と自分を顧みて思う事があります。
幸せな事がいっぱいあると、小さな幸せを大切にしなくなるし、若い時の選択肢がいっぱいあって、何でも選べる、何者にもなれる、という時って、逆に1つに決められなくて、いつまでも迷った状態で、自分の幸せはここじゃないどこかにあるといつも思っている青い鳥症候群になっちゃう、少なくとも、私のような欲張りの怠け者はそういう環境では感謝しないし、何もしない。でも、今の私は幸せな事がたくさんないし、選択肢も2つ、又は1つきりしかないような状態だから、その1つに専念せざるをえないし、小さな事にも感謝して(今、病気じゃない事、旦那が真面目に働いてくれるおかげで貧乏じゃない事、仲良くない夫婦でも、寒い夜に鍋を一緒につつける相手がいる事とか)生きていくという「追い込まれてやっと気がついた幸せ」がある。
最近、自分の事を応援してくれてるような言葉に出会って泣いた。
「人は失ったもので形成される。人生は失うことの連続だ。失うことでなりたかった自分になるのではなく、本当の自分になれるのだ」
byアレハンドロ・イリャニトウ
(映画監督、私と同じ54歳)
ハリウッドのセクハラ断罪旋風における陰と陽
去年の10月、「New York Times」と「New Yorker」がハリウッドの超大物プロデューサー、ハーベイ・ワインスタイン(65歳)のセクハラ暴露記事を出して以来、ハリウッドだけでなく世界中のショービジネス界を席巻しているセクハラ暴露&断罪旋風、先のゴールデングローブ賞授賞式のニュースでも受賞作やウイナーよりもその関係の話の方が話題になっていた。
一夜にして輝かしいキャリアと名声を奪われ、賞レースに割ってはいれそうな作品
『All The Money in The World』
(監督:リドリー・スコット 脚本:デビッド・スカルバ)
からも出演シーンをカットされたケヴィン・スペイシー(58歳)。
Netflixのドラマ『ハウス・オブ・カード』の制作現場で、制作総指揮の権限をちらつかせて常に若い男性に不適切な接触を続けていた、とか制作アシスタントを性的に暴行したとか、クソすぎるエロおやじなわけですが、その犯罪告発の発端となった舞台俳優アンソニー・ラップのセクハラ被害告白。
過去2度のアカデミー賞の受賞経験があるオスカー俳優のケヴィン・スペイシー(58)が、自身のTwitterを通して、少年時代に彼にセクハラを受けたという主張する俳優に対して謝罪。また同声明の後半で彼はゲイであるとカミングアウトしたが、SNS上では「失望した」「言い訳にもなっていない」「注意をそらそうとしている」と批難が殺到している。
きっかけは、ドラマ「スター・トレック:ディスカバリー」や映画『RENT/レント』に出演している俳優のアンソニー・ラップ(46)による、Buzzfeed Newsのインタビュー記事での告発。子役時代から舞台を踏んでいたアンソニーがまだ14歳だった1986年のこと、アンソニー少年は当時26歳だったケヴィンのアパートに招かれ、酔っているケヴィンにベッドの上で口説かれたという。そして押し倒されるような格好になり恐怖で凍り付いたというアンソニー少年だが、その後は解放されたとのこと。アンソニーは「もっと恐ろしいことが起こらずに非常に幸運だった」と振り返っているが、この少年時代の経験は彼にトラウマを与え、今もケヴィンを見ると気分が悪くなることを明かしていた。
引用:シネマトゥデイ
これは、セクハラではなく未成年淫行未遂事件ではないんだろうか、もし、これが大人だったら暴行未遂になるんだろうか、押さえつけられて、動けなくされての強要なら暴行なんだろうが、逃げようと思えば逃げられる状態での事なら、暴行にはならないし、さらに上下関係や雇用関係のない相手が、酔って言い寄ってきて、危ない雰囲気になったけど、結局は無事でした、という事もセクハラにされちゃったら毎日世界中の男達が何千人(女性もありえる)も解雇されてしまうはずだ。
今の反セクハラ運動の急激な盛り上がりぶりを見ていると、酔った勢いでの男女の間違いも、後から女性が「セクハラだ!」と告発したら、セクハラになっちゃうんではないか、日本のエンタメ界とかビジネス界に今だ根づいていると思われる”枕営業”はセクハラにならないのか?もし、セクハラならたとえ合意の上でもやはり男性が罪に問われるのか?とか、疑問に思う。
現在、ハリウッドの中心にいる女優、ジェニファー·ローレンス(27歳)も、ワインスタインに枕営業かけて、それで、実力以上の地位やメディアへの露出を手に入れた人、というのが、あっちでは公然の秘密みたいになってるそうです。
そういうのを聞くと、枕営業なんて絶対にかけてこなかっただろうし、かけても男性側から断られそうなフランシス・マクドーマンド(60歳)はかっこいいなぁ。
ゴールデングローブ賞への出席にも、他の女優陣が、”連帯”して黒のドレス着用だったのに、紺色を着てきたそうだ。
出典:ELLE ONLINE
まあ、23歳でジョエル・コーエン監督(現在65歳)と結婚しちゃってるからしたくてもできなかっただろうし、枕営業に向かない容姿のフランシスに惚れ、妻にして、あの離婚率がはんぱないハリウッドでずーっと添い遂げているコーエン監督も知性あふれるなぁ、と尊敬。
カトリーヌ・ドヌーブ(74歳)やジャーナリスト、映画監督、学者など100人が連盟でフランスの新聞「ル・モンド」誌上で主張した
「男性が女性を口説くことは犯罪ではない」
という意見。
実は私のような女性ホルモンが涸れはてた田舎のおばさんにも、この意見に関係するような問題がある。
(以下の話は個人的であまりにもスケールの小さな話なので、読みたくない方は飛ばしてください)
私は趣味でバドミントンをやっている。いろんなサークルにまぜてもらっているのだが、その中で、週1回一緒にバドミントンをやっている60歳位のおじさんに体育館にいる2時間の間、2,3回お尻をなでられる。
普通に家庭を持ち、仕事をし、バドミントン仲間の間では普通以上に”いい人”であるが、確実に、わざと、お尻をなでる。「今、お尻さわっーたー!」と言い返しても、「さわったよー!」と頓着ない。
それをたまに他のおばさんに目撃されて恥ずかしいし、私も勿論気分はよくないので、女友達に相談すると、「それ、セクハラだよ、やめてって言わないとダメだよ」と言われる。でも、考えてみたら、これはセクハラではない。
何故なら、そのおじさんと私とは雇用関係も上下関係もない平等な間柄であるので、もし、私が、体育館のみんなに聞こえる場所で、「お尻さわるのやめてください!!」って怒っても、私には何の不利益も生じないから。
むしろ、さわる彼の方がみんなに軽蔑されて肩身の狭い思いをするだろう。
それでも、私は怒る事はできない。その彼とは、お尻をなでられるだけでなく、常に冗談を言い合って楽しく過ごせる間柄なので、もし、私が怒って、その人との今の楽しい間柄が壊れてしまったり、他の人々から私と彼の事が変に注目されたり、目立ってしまう事の方が嫌だからだ。
こんな風に思っちゃう私はセクハラ撲滅や女性の人権の尊重を唱える「ME TOO」運動の女性達からは「純潔でない」と非難されちゃうんだろうか?
もっと聡明な女性だったら、彼と被害者対加害者みたいな対立関係にならずにうまーく策をこうじて、お尻をなでるのをやめるように解決できるだろうが、そんな名案も浮かばないので、ま、いっか、と先延ばしにしている。人生、宙ぶらりんのままにしておいた方がいい事もあるかもしれない、と。
セクハラの定義をどう考えるかは、上下関係のある者同士とか職場の中以外の場所では、色々複雑 なのかもしれない、と思う。
誰が見ても、完璧なセクハラ行為の対価をきっちり支払うはめになったケヴィンとは正反対に、完璧にセクハラの犯罪加害者でありながら、この断罪旋風のわずか7か月前にアカデミー賞主演男優賞を取ってしまった幸運な男もいる。
ケイシー・アフレック(42歳)だ。
この騒動が起きるのが、1年早かったら、彼は受賞どころかノミネートもされなかっただろう。 彼の人生最大の幸運ではないだろうか。
『容疑者ホアキン・フェニックス』公開直前の2010年7月、製作に関わった女性スタッフふたりからセクハラで訴えられ、200万ドル強の損害賠償金を求められたケイシー。当人は疑惑を全否定し、「(訴えは)公開を邪魔するためのものだ」とメディアにアピールしたものの、これはまったくの嘘。インディーズ映画のスタッフとはいえ、映画が公開されないことは女性たちの得にならないのだから。もちろん当時のケイシーはスターじゃないので、訴訟自体もさほど話題にならず。被害者の要求通りに和解金を支払って口封じしたけど、オスカー候補になったことから蒸し返されるハメに。「セクハラ男にオスカーはふさわしくない」と声を上げる女優も続々!
引用:ELLE ONLINE
この男の幸運はもっとある。
今までは身体障害者、知的障害者、エイズ患者、アル中患者、難病者、LGBT、落ちぶれてくスター、汚れに汚れた悪役、本人が憑依したかのように演じられた歴史上の有名人等、インパクト大な役が主演男優賞を取ってたのに、去年は対抗馬にそういうインパクトの強いキャラクターがいなかったので、「過去の重荷を背負い、人生を捨てている便利屋の男」という主演男優賞を取るには普通すぎる役でオスカーを手に入れられたという事も。
アカデミー主演男優賞受賞『マンチェスター・バイ・ザ・シー』予告編
更に個人的には、ケヴィンと変わらないじゃないか、むしろ、彼より卑劣でズルいだろ、と思うマット、デイモン(47歳)とラッセル・クロウ(53歳)もこの騒動であまり痛手を負ってない。
彼らは今のところ、キャリアには何の傷もつかず、これからもハリウッドの第1線に立ち続けるつもりなんだろう。
ただ、マットはワインスタインのセクハラについての無神経な発言や、下記の行動のせいで、賞を取る為に作る作品にはもう呼ばれないだろう、と噂されているし、女性が主役の『オーシャンズ8』(2018年米国公開予定、監督、脚本:ゲイリー・ロス)へのマットのカメオ出演の企画に対して反対する署名運動が一般人から起きている。最近作の『サバービコン』(監督:ジョージ・クルーニー 脚本:コーエン兄弟)
もアメリカでは興行成績が惨敗だったとか。
また、ケーシー・アフレックについても、今年のアカデミー賞授賞式に来て、世界各国に放映されるTVカメラや会場の同業者が見てる前で舞台に上がり、今年の主演女優賞のウイナーにオスカーを手渡さなければならないのだが、ヒステリックと言ってもいいくらいのこの状況下で晴れの舞台に上がらなければならないのは、針のむしろなのでは?
やはり、"断罪の嵐"からは逃げ切れなかった、という事なのか……
マットとラッセルがセクハラ記事のもみ消しに協力?
すると、新作のプロモーションでテレビ出演したベン・アフレックの親友マット・デイモン(47)が「グウィネス・パルトロウ(のセクハラ被害)についてはベンから聞いて知っていた。彼は彼女と付き合っていたからね」と抜け駆け告白。
ところが『ザ・サン The Sun』によると、こちらも一部メディアやツイッターで叩かれるはめに。
まず、女優ケイトリン・ダラニー(50)が同誌のインタビューに答え、「マットの言い訳なんて通用しないわ。彼らが20年前に告発していてくれていれば、大勢の女性たちが救われたのに」と一刀両断。
さらに元『ニューヨーク・タイムズ』の記者は、2004年時点で発表しようとしていたワインスタインのセクハラ関連記事が外部からの圧力でもみ消されたことを『The Wrap』で暴露。
圧力を掛けてきた人物の中には、マット・デイモンの他にラッセル・クロウ(53)も含まれていたと書いています。
引用:女子SPA!
更に更に、あの最近旬な映画評論家、町山智浩さんが言ってたのですが、
あの名匠中の名匠、アルフレッド・ヒッチコック監督(1980年没)も、セクハラの常習者だったそうです。でも、もう死んじゃってるから、声高に取り上げられる事もないし、名声に傷がつく事もないのでしょう、きっと。
最後にこのセクハラ旋風で男をより上げた人がいます。
ブラッド・ピット(54歳)です。
まだ、人気俳優じゃなかった頃、何の力も持ってなかった時に、付き合っていた女優グウィネス・バルトロウ(45歳)に、ワインスタインからのセクハラ被害を打ち明けられ、怒って、あるパーティでワインスタインに詰め寄り、
「グウィネスに二度とあんなことするな」と、警告していた事が目撃されていたそうで
す。
更に彼はハリウッドのこんな不都合な真実もちゃんと告発しています。
ブラッド・ピットがハリウッドの小児性愛犯罪を暴露
竹下雅敏氏からの情報です。
引用元:日本や世界や宇宙の動向
さすが
「成績より作品の質を重視する」がモットーのプランBエンターテインメント社長!
珠玉の名作『それでも夜は明ける』(2014年日本公開、アカデミー賞作品賞受賞)をパラマウントが客が入らない内容だから、と製作をおりた後「必ず映画化する!」と、お金をかき集め作った名プロデューサー。
私はこの人を”ハリウッドの良心”と呼んでおります。
長い記事を読んでくださった方、本当にありがとうございました。
今年観る5本
『スリー・ビルボード』
2月1日公開予定
監督:マーティン・マクドナー
(47歳)
脚本:マーティン・マクドナー
2017年トロント国際映画祭観客賞受賞
(最高賞にあたる)
2017年ヴェネチア国際映画祭脚本賞受賞
米批評サイト、Rotten Tomatoesでトマトメーターが241人中93%
『スリー・ビルボード』予告編 | Three Billboards Outside Ebbing, Missouri Trailer
なぜ、日本の女優さんが演じる主婦は、みんな、整然と片付いて、チリ一つ落ちてない家の中で、髪型から化粧、そして着ている服まできっちりとCMや広告の中の爽やかな主婦の恰好をしているんだろう?
以前、TVドラマのレビューサイトで、あるドラマの受刑者設定の中年の主演女優が
[刑務所に入っているのに、化粧していて不自然]
という意見が、
[ 逆に化粧してなくて、しわしわの○○(女優の名前)が出てたら観たくない]
という多くの意見の返り打ちにあっているのを見たけど、多分、日本では正直さや自然さより、不都合な事は言わない見せない不自然さが好きな人が圧倒的に多いんだろうな。
この『スリー・ビルボード』の主演女優、フランシス・マクドーマンド(60歳)が、出てくると、スクリーンの中がぱっと”日常”に変わる。
自分が住んでいる、きらびやかでも刺激的でも芸術的でもない日常の世界。
居間の戸棚の上にうっすら埃がたまっているような、
コタツの上に洗濯ばさみで袋の口をとめた食べ残しのポテトチップスやコーヒーを飲み終わったマグカップがそのまま置いてあるような。
この人がいる画面は、その映画が自分とはかけ離れた夢の世界の出来事ではなく身近な所で起こった事のように入ってくる。
実際は、住んだ事もない、行った事もない異国の話なんだけれど。
3月1日公開予定
監督:ギレルモ・デル・トロ
(53歳)
脚本:ギレルモ・デル・トロ
2017年ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞
Rotten tomatoesでトマトメーターが243人中93%
『シェイプ・オブ・ウォーター』予告編 | The Shape of Water Trailer
宇宙人、怪獣、超人、色んな生物が出つくして、もう飽和状態になっている感もあるこのジャンルの中で謎の半魚人の男と人間の女性との交流、そして恋愛というのはまだなかった要素じゃないだろうか。
又、人間の女と半魚人の男との異種間のセックスという今までクリエイター達が逃げていた分野に正面から踏み込んだ、という点でも。
wikiを読んで、デル・トロ監督がメキシコ人だと知って驚いた。
近年、世界の映画製作においてメキシコ人監督の活躍が目覚ましいからだ。
デル・トロ監督は色々メジャーな作品を作っていて昔から有名だけど、他にアレハンドロ・イリャリトゥ(54歳)とかアルファンソ・キュアロン(56歳)とか、
撮影監督だけど、エマニュエル・ルベツキ(53歳)(2014年から『ゼロ・グラビティ』、『バードマン』『レヴェナント・蘇りし者』で3年連続アカデミー賞撮影賞受賞)とか。
NHKBSのドキュメンタリーを観てたら、メキシコ映画技能センターという学校があって、そこの講師だったか、校長先生だったかが、メキシコ出身監督の躍進の理由を聞かれて
「メキシコには92(だと思った)の異なった文化があり、メキシコ人は、互いにそれを受け入れて、学ぶ姿勢を持っている。もし、アメリカ人が、メキシコにきて、メキシコ映画を作ろうと思っても絶対できないが、メキシコ人がアメリカでアメリカ映画を撮る事はできる。なぜなら、メキシコ人は異なる物から学び、それを生かせるからです」
と答えていた。
「America First!」なんて言葉に歓喜し、ラテン系、アフリカ系、アジア系などの有色人種を下に見るアメリカの白人気質を皮肉ってるようにも思えた。
『レッド・スパロー』
3月30日公開予定
監督:フランシス・ローレンス
(46歳)
脚本:ジャスティン・ヘイス
RED SPARROW Bande Annonce VF (2018) Jennifer Lawrence
ジェニファー・ローレンス(27歳)がロシアのスパイ、ジョエル・エドガートン(43歳)がそれと恋に落ちるCIA捜査官を演じるんだが、この「ジョエル・エドガートンって誰?」て思う人が多いと思う。なかなかメジャーになれない地味な男優さん。(Netflixで視聴開始1週間で最も最多の視聴回数を記録した『ブライト』でせっかく主役級やっても、特殊メークで固められた怪物役だったし)
だからもちろんイケメン認定もされてない。イケメン枠の正面に堂々といすわっているジョニデよりずっと整った顔をしてると思うのだけど。こういう存在の人がそこそこの大作映画でジェニファーの恋人になる、というだけで、新鮮度100%な作品になるような気がする。
『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』
4月27日公開予定
監督:アンソニー・ルッソ
脚本:クリストファー・マルクス
スティーブン・マクフィーリー
私は、あまりにも魅力的で主役を食っちゃうような悪役が出ている映画に惹かれるんだけど、その魅力的な悪役たちの中でも特にロキが好きでたまらない。
悪人なのに善もあるミステリアスな悪戯の神、そして愛情に飢えて不良になった少年が今もどこかで愛を欲してるかのような、永遠の反抗期のおじさん。それが、覚悟も信念も小さいから、悪事を働いても、いつも正しい善人達に阻まれる情けなさ。キュートすぎて愛さずにはいられないロキ。
又、演じるトム・ヒドルストン(36歳)の貴公子のような上品な顔立ちと全く腕力がなさそうなスリムな体型がソーやキャップとは真逆の魅力を際立たせている。
このロキがサノスの側につくという。
しかもマーベルスタジオの社長、ケヴィン・ファイギが「サノスは、アベンジャーズより圧倒的に強い」と言っている。
とうとうロキが宇宙最強の悪人と組んで、善の側のヒーロー達を倒し、念願の支配者の座に座れる時がきてしまうのか、ま、でも、組むと言っても、どうせ、使いっぱしりぐらいに違いないだろうけど。
宇宙最強の超悪人とその使いっ走りの、その活躍が楽しみで仕方ない。
ただ、一つ問題がある。
超大作みたいだからTVでも予告編をバンバン流すだろう、改めて考えてみると、TVの洋画の予告って、字幕だったか、吹き替えだったか、思い出せないが、もし、吹き替えの予告がたくさん流れて、サノスの吹き替えが日本のアニメの悪者みたいなオーバーアクションで声高な、威厳のない声だったらそれだけでテンションが下がりそうだ。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(2014年日本公開)のブルーレイで吹き替え版を観ればサノスの声がどんなだか分かるのだけど、あの吹き替え版は腹が立つので観たくない。そういえば、マーベル映画の吹き替えって、私が観た少ない作品の中でさえ、キャップはこんな子どもじゃない、とか、トニー社長もこんなチャラい感じじゃない、とか違和感だらけなのに、何故か、ソーとロキの兄弟だけはイメージを破壊してない、というか、『マイティ・ソー』メンバーは父上以外はみんな合っている。
いいなぁ……
『ジュラシック・ワールド:FallenKingdom』
7月13日公開予定
監督:ファン・アントニオ・バヨナ
(42歳)
脚本:コリン・トレボロウ
(41歳)
デレク・コノリー
「ジュラシック・ワールド」続編は恐竜を救う?映画「ジュラシック・ワールド/炎の王国」予告編が公開
クリス・プラット(38歳)がキュートで面白い兄ちゃんを封印して、たくましくて男らしい大人の男を演じてもまた魅力たっぷりだという事を証明した『ジュラシック・ワールド』(2015年日本公開)。
普段は”35歳児”と言われ(今は38歳児だが)本当におバカで面白い事をしてくれるクリプラが別のキャラをやってもちゃんと俳優している姿を見れるというだけでいいのだ、脚本に色々アラがあったって。
ただ興行収入は現在全世界4位の『ジュラシック・ワールド』(じきに『最後のジェダイ』がトップに立ち5位に下がると思われる)よりはだいぶ落ち込む気がする。
『ジュラシック・パーク』も2作目、3作目と観るにしたがって新鮮味がなくなっていきワクワク感も減っていった。『ジュラシック・ワールド』があの爆発的興行成績をたたき出したのは14年ぶりの正統派恐竜映画が久しぶりのワクワク感を取り戻させてくれたからだと思う。
それに14年ぶりのシリーズという事で、どこか大目に見てもらってたような気がするコリン・トレボロウとデレク・コノリーのおめでたい脚本も、2回目となると、もう、そんな温かい目ではなく、正当に手厳しく評価されちゃうんでは、という気がする。更に、ワールド1作目は『猿の惑星:創世記』(2011年日本公開)の脚本家もライティングに加わってたそうだが、続編はトレボロウとコノリー二人だけで書いているそうで、予告編を見ると、やっぱり、というか、B級感が漂ってる気がする。
でも、シリーズが続くにしたがってB級ぽくなっていってしまうのは仕方ないんだろうなぁ……
それに『ジュラシック・パーク』(1993年日本公開)から『ジュラシック・ワールド』続編まで5作も作って、「もう、飽きた~!」って声を覆すために、奇想天外なアイディアとかパニック映画の色んなネタをぶち込んでって、もはやB級映画の態になりながらも、どこか、ちまたの数あるB級品とは一線を画してるように見える。
それはこのシリーズが、人間のおろかさのせいで自然に復讐されるという哲学的なメッセージを保持し続けているからではないだろうか。
原作者のマイケル・クライトン(2008年没)や、原作に惚れ込んで1作目を世に出してくれたスピルバーグ監督(もう71歳)の偉大さを改めて感じます。
私がブログをやめない理由
私がブログを始めたのは、身近に、大作、娯楽作、自分が大ファンの日本人俳優が出てる邦画以外の映画を観に行くほどの映画好きな人がいなかったからだ。
ブログを読んで、コメントを書いてくれた人にコメントを返して、ネット上でもいいから映画についての好きな事や感じる事を語り合いたかったから。
ブログを始めれば、そういう人の1人や2人は見つけられるだろう、とその可能性を大いに信じてたけれど、アクセスが沢山ある、とか、はてなスター(はてなブログでの
”いいね!”にあたる。記事の左下にある星マーク)が沢山つくといいな、とは思わなかったし、その可能性もないと思っていた。
いざ始めて4か月、はてなスターは22件記事を書いて11個だけ。ブックマークは、1個。読者数は1。その読者1の方が以前は、はてなスターをつけてくださっていて、今も読者数1のままだけど、読者一覧をクリックしても、読者はいません。とでてくるので、愛想をつかされたのだろう。ここまでは想定内なのでショックはない。
想定外だったのは、いまだ、1件もコメントをもらえてないという事。ここまで惨状が続くと、心が折れて、ブログやめようかな、と思うのが普通だと思う。
私もやめよう、と何度も思った。しかも、ブログを始めたとたん、30年間、巡り合えなかった”身近にいる映画好きな人”というのが現れたので、こんなに劣等感に打ちひしがれながら、ネット上で映画について語り合える人を探す必要もなくなった。
しかし、予定外の嬉しい誤算が起きていたのだ。
1つの記事のアクセス数が、自分の予想(10くらいだと思っていた)してたのの5倍くらいあるのだ。過去の記事へのアクセス数も入っているのだろうけれど、それでも、こんな内容をのぞきにきてくれる人が50人もいるんだ、と感激!人気ブロガーさんや、はてなスターやブックマークが沢山ついているような”ネット充”なブロガーさんにとっては、1記事で50アクセスなんてのは、スズメの涙、砂漠の露一滴なんだろうが、コメント0、はてなスターたったの11というブロガーにとってはとても嬉しい数なのだ。
あ、でもひょっとすると、50人もの人が見てくれてるのではなく、私の友人の誰かがあまりに可哀想に思って、記事を書くと、50回アクセスしてくれてるのかもしれない、
いや、友人にそんな暇な人はいないし、私の事をそんなに好きな人もいない。ならば、名前も顔も知らない神様のような方が、このブログのアクセス数を増やす為に一人で50回アクセスしてくれるのかもしれないが、そんな人にめぐり逢えたならそれはそれで幸せだろう。
だから、結局、ブログをやめられなくなり、更にしょっちゅうブログの閲覧数を確認するようになってしまった。1か月に多くて4記事しか更新しないから、完璧なSNS依存症にもなりきれないのだけど、あと3アクセスあれば、今月のアクセス数が200超えるから、と、今も旅行中なのにスマホを使ってこの記事を書いている。
どちらかというと、時代とは逆をいく私が、現代病、SNS依存症になりかけている。(ブログをSNSと言っていいのか、どうか分からないけれど)
リアルな世界で対人関係が充実してれば、依存症にはならないと思う。事実、社交下手で普段は淋しい毎日の私でも、たまに旅行だの、イベント多し、だので、人と沢山会って沢山しゃべってる期間は、アクセス数が何個増えたか見てみよう、なんて、頭によぎりもしない。
あと、現実の世界で自分の目標が予定通り達成できて多幸感を味わえていれば、やはり、ネットやSNS依存にはならないような気がする。私は、現実世界はもちろんの事、ブログで時々、コメントをもらう、というちっぽけな目標さえ達成できなかった。
で、アクセス数を見た時、「あ、けっこうあるじゃん(予想と比べて)うれしい!!」っていう唯一の成功感にすがりつきたくて、ブログを続けている。
リア充じゃないから、依存症になった、というお決まりのパターンだ、私の場合は。
今年はインスタグラムがよく話題にあがってた。
若いインスタグラマーの話題で、不思議に思う事があった。他の人とは違う、他の人が投稿できないようなワンシーンを投稿して、”いいね!”を多くもらう快感なら分かる。すごく分かる、「自分ってすごーい!」と感じる事ってすごい多幸感だと思う。でも、他の人もたくさん投稿してるのと同じ場所の写真を投稿してそれに”いいね!”がたくさんついても、それはお互い様だから、の法則のお付き合いの”いいね!”でしかないんじゃないか?それでも、心から本当に嬉しいのだろうか?
いや、お付き合いでくれる”いいね!”でも、褒められたら嬉しいんだろうな、お付き合いでさえ、いいね!(はてなスター)をもらえない私には分からない気持ちだからそう思うんだろう。
ただ、どこかへ行って楽しかったからその写真を投稿するっていうのじゃなくて、”いいね!”をもらう為にわざわざ出かけてって、お金出して食べ物を買ってその写真を撮ったら食べずに捨てちゃうってのは、私と同じで、依存してるんじゃないかなと思う。
超高層ビル屋上で危ないパフォーマンスをして、その動画でお金を稼いでいた26歳の中国人が懸垂中にビルから落ちて命を落とした話も、大金を稼がなければならない事情があったとしても、他の仕事を選ばずにネットを利用してお金を稼ぐという道を選んだのは、私達が今のネット社会の魔力に麻痺しちゃってる事を象徴してる気もする。
世間の若い人達の中でもSNS依存症は増えていると聞く。私みたく非リアな人もけっこういるんだろうか?それとも、同性の友達がいっぱいいて、彼氏、彼女がいて十分リア充な方達でも依存せずにいられない何かがあるんだろうか?
★私の、全然充実してないブログをのぞきに来てくださった方、本当に感謝してます。ありがとうございました。
おかげで、心が折れませんでした。
皆様にとって来年が幸多い年でありますように
今、そこにある危機
壮絶な環境の中で歯を食いしばって生きている若者の、そんな中での恋、友情や裏切りというとても人間らしい要素を描いている2作品を観ました。
『ムーンライト』
2017年日本公開
第89回アカデミー賞作品賞、
受賞
監督:バリー・ジェンキンス(38歳)
脚本:バリー・ジェンキンス
タレル・アルビン・マクレイニー
米国の、貧しさとか教育の不平等とか犯罪に囲まれた環境の中で麻薬に溺れて抜け出せない人々の社会で成長し、生きていくしかない黒人の少年期から大人になるまでを描いた作品です。
『オマールの壁』
2016年日本公開
監督:ハニ・アブ・アサド(56歳)
脚本:ハニ・アブ・アサド
それでも『ムーンライト』は多分ハッピーエンドぽい、救いのあるラストでしたが、『オマールの壁』はその衝撃的なラストを先に知ってしまうと、作品を味わう楽しみが激減してしまうと思うので、ストーリー説明はやめときます。
ぜひ、ご覧になってください。
政治的、宗教的メッセージを前面に出した暗くて抽象的な作品だと誤解してしまいそうですが、ハニ・アブ・アサド監督は、脚本も共同執筆して、自爆テロに向かう二人のパレスチナ青年を描いた『パラダイス・ナウ』(2007年日本公開)で、2006年のゴールデングローブ賞外国語映画賞等、数々の賞を取り、『歌声にのった少年』(脚本:ハニ・アブ・アサド/ザメーゾ・アビー 2016年日本公開)でも、ガザ地区から偽造パスポートで脱出し(ガザ地区にいるパレスチナ人はイスラエル軍に包囲、制圧され、自由に外に出れない)アラブでスーパースターになった男性歌手の実話を感動的な作品に仕上げている楽しませる事が上手な人のようで、この『オマールの壁』もハリウッド映画のように分かりやすくて観やすい作品です。
主演俳優のアダム・バクリ(29歳)が、来日時、インタビューで語った所によると、
ガザ地区やヨルダン川西岸に暮らすパレスチナ人は、イスラエルの検問所を通って大学に行くのに5時間もかかったり、水や電気を度々かってに止められたり、とにかく不便で人権無視な環境で生きているそうです。医療も不十分で、他の国なら助かる病気も助からない事があるみたいです。
トランプ大統領の「イスラエルの首都はエルサレム」発言で、各国でデモが起きているらしいが、勿論この土地の住民はデモさえやらせてもらえないんだろうな……
この作品中でも、主人公は、ガザの居住区を分断して建っているイスラエルが作った壁をよじのぼらないと恋人の家に行けないのですが、壁をよじのぼると、監視塔からイスラエル軍の銃弾が飛んでくる、という死と隣り合わせな生活です。
そんな不便で辛い生活を変える為にイスラエル軍への攻撃や抵抗をして、常に危険にさらされて生きている男達を描いた本作。
『ラ・ラ・ランド』(2017年日本公開)が、壮大な能天気の作り物に思えて仕方ありません。
などと、えらそーな事言ってる私も、「可哀想だなぁ」と他人事に思って高みの見物をしている鼻持ちならない人種なのだけど。
もっと言えば、同じイスラエル国内に生まれたパレスチナ人でも、人々が苦労しているガザやヨルダン川西岸で育ってないし、現在はニューヨークで俳優活動をしてるアダム・バクリも、ヨーロッパで自由に芸術活動しているハニ・アブ・アサド監督も、高みの見物側の人間なのでは?と思う。
以前観てボロボロ泣いてしまったドキュメンタリー。
『世界の果ての通学路』
2014年日本公開
監督:パスカル・プリッソン
脚本:パスカル・プリッソン
Marie Claire Javoy
ケニアのサバンナ。象に襲われないように警戒しながら、片道15㎞を2時間かけて通学する兄妹。
モロッコのアトラス山脈の険しい山道を毎週月曜日、4時間かけて寄宿舎付きの学校へ行く三人の少女達。家族の中で初めて学校へ行ける世代の自分が将来の為に勉強するんだ、と言う真剣なまなざし。
アルゼンチンのアンデス山脈。人里離れた牧場で家族と暮らす少年は、毎朝妹を後ろに乗せた馬に乗って家を出発し、18㎞先の学校に通う。
インドの貧しい家の三人兄弟は、でも、働かせずに学校へ通わせてくれる母親に見送られて、足の障害で歩けない長兄をボロボロの車椅子に乗せ、下の弟2人がどろどろのぬかるみやがたがたで車輪を押すのが一苦労な道を車椅子を押して片道4㎞を歩いて学校に通う。
この作品は、いろんな一般人のレビューで、
「ドキュメンタリーなはずなのに、都合のいい展開があったり、明らかに演出してる、と思われる場面がある」
とか
「やらせじゃん!と感じて興ざめした」
等、ケチがついたりした作品でもあるんだけれど、いつも、ドキュメンタリーじゃない作品に対しては「ご都合主義だ!」とか「リアリティがなさ過ぎて白ける」等、文句たらたらの私が、ドキュメンタリーという最もご都合主義なくさい要素は禁止なはずの映像に対して何故か、いちゃもんはいっさい浮かばなかった。子どもが好きだから感覚がマヒしてしまってたのか、普段、生意気な事を言ってても、結局は間抜けなだけなのか……
どこの国の子も最初から過酷な状況がありありと映し出されていて、それを見ただけでもう、引き込まれて、涙腺崩壊待機状態になってしまうからなんだろうか、そのまま、ラストまで「なんて立派なの、この子達」と思って過ぎてしまった。すくなくとも、自分達がいかに恵まれてるかを思い出し、その気持ちを前向きな方向に向けてくれるドキュメンタリーだったと思います。
私達日本人は、いくらでも勉強できる環境なのに勉強してない人ばかりです。
きっと、伝統的、又は経済的な理由で学ぶのが困難な所の学校には先進国のような形のいじめはないように思います。だって、みんな、こんなに苦労して毎日学校へ行ってるんです、勉強する事で精一杯で余計なこと企んでる余裕はないんではないでしょうか。
今の日本は戦争も占領もないし、麻薬社会で育ち、少年院行き→薬の売人になるような未来しかない環境の子ども達も稀だと思う。それどころか、かってない豊かさを享受している国。
都会では電車やバスが、田舎ではほぼ1人に1台車があって、どこへ行くにも簡単に行けて、何でもネットで注文すれば家から1歩も出ずに生活できるし、子どものお守りはスマホにまかせとけばいい、3Kの介護職は出稼ぎに来るアジア人にやってもらう……
何という楽な生活、でも、私達はその快適さと引き換えに何か大きなものを失っていってるんではないだろうか?
その快適すぎる生活への警鐘を鳴らした作品をwowowで観ました。
『サロゲート』
2010年日本公開
監督:ジョナサン・モストウ(56歳)
脚本:マイケル・フェリス
ジョン・ブランガトー
[あらすじ]
未来社会では人間は自宅にこもりきって、コンピューターで自分の脳とつながれたロボット(サロゲートとは代理人という意味)が外へ行き、自分の代わりに仕事を含め、全ての現実の生活をこなしてくれる。ロボットなので、容姿もスタイルも自分の望み通りの、なおかつ若い体。そんな自分が外で人生を送るのを脳を通じて体感できるし、外で誰かに暴力をふるわれたり、交通事故で死んでしまっても、ロボットが死ぬだけで、又次の代価品を手に入れればいいので、病気以外の事で人間が死ぬ事がなくなったユートピアのような社会。
という事だったが、世の中の事が全て人間の計画通りに進むはずもなく……
★今でさえ、先進国で標準的生活をしてる人々はもう、十分、快適で、安全で、便利な生活をしてるのに、もっともっと進んだ世界を求めたが、それは”バベルの塔”のようなものだった、という感じの作品でした。
ノパソでブログを書き、タブレットで調べものをし、観る映画の7割はネット経由でアマゾンビデオとかNetflixから、という私がどの口からそんな偉そうな事言えるのって分かってるけど、私を含め、今、先進国の人々が謳歌している享楽の果てには何か大きな罰が待ってるのかもしれない、と思う。
電気等の資源の膨大な使用量に伴う環境破壊は今や歯止めがきかない、北朝鮮と米国、そしてその他の核保有国の間で報復合戦になれば、ボタンひとつで全世界が荒涼の大地になる。
トランプが米国大統領に就任して約1年、この年末は、日本人も、いつ、高みの見物人ではなく当事者になるか、わからない時代になったなと実感しています。
師走に観たい作品
12月は日常茶飯事以外に大掃除という”おおしごと”があるので、新幹線に飛び乗って東京まで遠出している暇はない。
にもかかわらず、興味深々な映画が3つもある。
『希望のかなた』
12/2~全国順次公開
製作:アキ・カウリスマキ
監督:アキ・カウリスマキ
脚本:アキ・カウリスマキ
前作『ル・アーブルの靴みがき』(2012年日本公開、監督、脚本、カウリスマキ)から始まる移民三部作を作る、と言い出したのですが、二作目となる本作で終了し、監督業を引退するそうです。
今までの作品は『浮き雲』(1997年日本公開)、『過去のない男』(2003年日本公開)、『街のあかり』(2007年日本公開)(全て監督、脚本、カウリスマキ)に代表されるような、無味、無臭、無表情な人々が見せてくれる優しさと哀しさをしみじみ味わう感じのでしたが、『ル・アーブルの靴みがき』は今まで常にあった現実の厳しさや哀しさを排除し、おとぎ話のような暖かいお話になってました。今作も人々の優しさ成分が強いようです。今作は観てないので、いい加減なことは言えないと思うのですが、『ル・アーブルの靴みがき』は、ちょっと作風が変わったなぁと感じました。
この監督は昔から、”社会の底辺や敗者側にいる人々への暖かいまなざし”から発想されたような作品を作る人ですが、そんな性格には、今の欧州の移民問題の悲劇は黙っていられない物だったという事でしょうか、前作も今作も強く明確なメッセージがダイレクトに表現されてるように思います。(まだ、観てないくせに、書いちゃって、後で困るかもですが)
『オレの獲物はビンラディン』
監督:ラリー・チャールズ
脚本:スコット・ロスマン/ラジーブ・ジョセフ
上記シネマトゥディの記事内にある予告を見ていただけると分かりますが、B級の匂いがプンプンします。
この監督さんはとても癖のある作品(=マイナー)を作る人らしく、フイルモグラフティを見ても、観た事も聞いた事も ないものばかりです。
政治色の強いコメディのようですが、面白いのか受け付けないか、私みたいなミーハーには蓋を開けてみないと分からない、というところに妙に引き付けられます。
『彼女が目覚めるその日まで』
監督:ジェラルド・バレット
脚本:ジェラルド・バレット
製作:A・J・ディックス
ベス・コノ
リンゼイ・マカダム
抗NMDA受容体自己免疫性脳炎という診断が非常に難しい稀な病気に侵された若いジャーナリストの女性が重い精神病と誤診される不条理や恐怖と闘い、病を克服した実話です。
プロデューサーとして名を連ねてるシャーリーズ・セロン(42歳)が映画化を熱望し、実現にこぎつけたそうですが、米国の映画批評サイト、Rotten Tomatoesのプロ批評家枠では22%という低評価です。一般人の評価も59%と好まれてません。話もキャラクターもつまらない(boring)とか、仕事も恋愛も順調な女性記者の主人公がありきたり(uninteresting)とか書かれてます。
なるほど、奇跡の実話ですよ、とか、恐ろしい病気と闘ったヒロインや深い愛情で支えた家族の話をそのまま描くだけでは、映画としてはつまらない、といわれちゃうんだなぁ。米国人と日本人では、感覚も違うんだろうけど、でも、私も、この病気と同じと定義されてるという卵巣奇形腫による辺縁系脳炎をわずらった女性とフィアンセの感動の実話(『8年越しの花嫁』)を、TVの『感動体験!アンビリバボー』で観た時はびっくらこいたけど、別に映画で観たいとは思わないしな、と思った。
ただ、この病気は病名が分かる前は「悪魔つき」と思われて、患者は悪魔や悪霊のように扱われていた、とか、この病気を治すには安楽死させるべき、と思われていたという悲劇を聞くと、「映画としてはつまらない」という言葉だけで、終わらせてしまってはいけないなと思う。
Rotten Tomatoesと言えば 164人のプロ批評家からの評価において100%をもらうというRotten Tomatoes史上最高の評価点をえた『レディ・バード』(12月現在米国公開中、グレタ・ガーヴイグ監督、脚本)の何がそんなに凄いのか?
高3病の女の子の親との確執、悩みやいろんな心の揺れを描き、最後に少し成長しました、というストーリーのようですが、もう、その時期の気持ちを思い出せない位、老いた私は、いつもなら、何でこんな小さな事で悩んだり、反抗すんの?と冷たく見て、素通りしてしまうのだが、この100%満点てのはどこから?何が?なんだろう、と気になって仕方ありません。
シアーシャ ・ローナン(23歳)、予告を見ると、ちょっとブスになった感じ(と言っても元が完璧な美少女ですから)がして、それがまた、より、演技がうまくなったような、より人間臭くなったような感じで、今作でも、2016年の『ブルックリン』(2016年日本公開)に続いてアカデミー賞主演女優賞にノミネートされると予想されてます。
テレビ・映画業界は、小児性愛犯罪ネットワークに深く関与しており、これらのネットワークを運営しているのは、イルミナティに属するエリートたちだということです。こうした犯罪組織に子供たちが巻き込まれる理由は、子供たちを有名にしたくて仕方のない親たちがたくさん居るからだと言うのです。彼らは自分の子供を有名にするために、“子どもたちの魂を売ってしまう”と言っています。非常にリアリティがあり、恐ろしさを感じます。
どうも、映画に出演する幼い子供たちは、テレビ局の経営者、映画業界の関係者、政治家、銀行家、他の業界のエリートらの餌食になるようです。
“続きはこちらから”以降の記事では、ブラッド・ピットの我が子への虐待疑惑が濡れ衣であったとあります。彼の暴露を知った今となっては、この虐待疑惑の虐待の意味が問題だとわかります。彼が無実であり、さらに彼が“自分の子供を有名子役にさせた母親は皆狂っています”と引用元の記事で発言していることから、この発言は、離婚したアンジェリーナ・ジョリーを暗示させるものになっています。言い換えれば、ブラット・ピットは、アンジェリーナ・ジョリーなら自分のハリウッドでの地位を不動のものにするためには、我が子の魂を売りかねないと言っているわけです。
彼女の顔を見ていると、その通りだとしか思えません。しかも、イルミナティは元々そうしたことをメンバーに強制する組織なのです。