今年観る5本
『スリー・ビルボード』
2月1日公開予定
監督:マーティン・マクドナー
(47歳)
脚本:マーティン・マクドナー
2017年トロント国際映画祭観客賞受賞
(最高賞にあたる)
2017年ヴェネチア国際映画祭脚本賞受賞
米批評サイト、Rotten Tomatoesでトマトメーターが241人中93%
『スリー・ビルボード』予告編 | Three Billboards Outside Ebbing, Missouri Trailer
なぜ、日本の女優さんが演じる主婦は、みんな、整然と片付いて、チリ一つ落ちてない家の中で、髪型から化粧、そして着ている服まできっちりとCMや広告の中の爽やかな主婦の恰好をしているんだろう?
以前、TVドラマのレビューサイトで、あるドラマの受刑者設定の中年の主演女優が
[刑務所に入っているのに、化粧していて不自然]
という意見が、
[ 逆に化粧してなくて、しわしわの○○(女優の名前)が出てたら観たくない]
という多くの意見の返り打ちにあっているのを見たけど、多分、日本では正直さや自然さより、不都合な事は言わない見せない不自然さが好きな人が圧倒的に多いんだろうな。
この『スリー・ビルボード』の主演女優、フランシス・マクドーマンド(60歳)が、出てくると、スクリーンの中がぱっと”日常”に変わる。
自分が住んでいる、きらびやかでも刺激的でも芸術的でもない日常の世界。
居間の戸棚の上にうっすら埃がたまっているような、
コタツの上に洗濯ばさみで袋の口をとめた食べ残しのポテトチップスやコーヒーを飲み終わったマグカップがそのまま置いてあるような。
この人がいる画面は、その映画が自分とはかけ離れた夢の世界の出来事ではなく身近な所で起こった事のように入ってくる。
実際は、住んだ事もない、行った事もない異国の話なんだけれど。
3月1日公開予定
監督:ギレルモ・デル・トロ
(53歳)
脚本:ギレルモ・デル・トロ
2017年ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞
Rotten tomatoesでトマトメーターが243人中93%
『シェイプ・オブ・ウォーター』予告編 | The Shape of Water Trailer
宇宙人、怪獣、超人、色んな生物が出つくして、もう飽和状態になっている感もあるこのジャンルの中で謎の半魚人の男と人間の女性との交流、そして恋愛というのはまだなかった要素じゃないだろうか。
又、人間の女と半魚人の男との異種間のセックスという今までクリエイター達が逃げていた分野に正面から踏み込んだ、という点でも。
wikiを読んで、デル・トロ監督がメキシコ人だと知って驚いた。
近年、世界の映画製作においてメキシコ人監督の活躍が目覚ましいからだ。
デル・トロ監督は色々メジャーな作品を作っていて昔から有名だけど、他にアレハンドロ・イリャリトゥ(54歳)とかアルファンソ・キュアロン(56歳)とか、
撮影監督だけど、エマニュエル・ルベツキ(53歳)(2014年から『ゼロ・グラビティ』、『バードマン』『レヴェナント・蘇りし者』で3年連続アカデミー賞撮影賞受賞)とか。
NHKBSのドキュメンタリーを観てたら、メキシコ映画技能センターという学校があって、そこの講師だったか、校長先生だったかが、メキシコ出身監督の躍進の理由を聞かれて
「メキシコには92(だと思った)の異なった文化があり、メキシコ人は、互いにそれを受け入れて、学ぶ姿勢を持っている。もし、アメリカ人が、メキシコにきて、メキシコ映画を作ろうと思っても絶対できないが、メキシコ人がアメリカでアメリカ映画を撮る事はできる。なぜなら、メキシコ人は異なる物から学び、それを生かせるからです」
と答えていた。
「America First!」なんて言葉に歓喜し、ラテン系、アフリカ系、アジア系などの有色人種を下に見るアメリカの白人気質を皮肉ってるようにも思えた。
『レッド・スパロー』
3月30日公開予定
監督:フランシス・ローレンス
(46歳)
脚本:ジャスティン・ヘイス
RED SPARROW Bande Annonce VF (2018) Jennifer Lawrence
ジェニファー・ローレンス(27歳)がロシアのスパイ、ジョエル・エドガートン(43歳)がそれと恋に落ちるCIA捜査官を演じるんだが、この「ジョエル・エドガートンって誰?」て思う人が多いと思う。なかなかメジャーになれない地味な男優さん。(Netflixで視聴開始1週間で最も最多の視聴回数を記録した『ブライト』でせっかく主役級やっても、特殊メークで固められた怪物役だったし)
だからもちろんイケメン認定もされてない。イケメン枠の正面に堂々といすわっているジョニデよりずっと整った顔をしてると思うのだけど。こういう存在の人がそこそこの大作映画でジェニファーの恋人になる、というだけで、新鮮度100%な作品になるような気がする。
『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』
4月27日公開予定
監督:アンソニー・ルッソ
脚本:クリストファー・マルクス
スティーブン・マクフィーリー
私は、あまりにも魅力的で主役を食っちゃうような悪役が出ている映画に惹かれるんだけど、その魅力的な悪役たちの中でも特にロキが好きでたまらない。
悪人なのに善もあるミステリアスな悪戯の神、そして愛情に飢えて不良になった少年が今もどこかで愛を欲してるかのような、永遠の反抗期のおじさん。それが、覚悟も信念も小さいから、悪事を働いても、いつも正しい善人達に阻まれる情けなさ。キュートすぎて愛さずにはいられないロキ。
又、演じるトム・ヒドルストン(36歳)の貴公子のような上品な顔立ちと全く腕力がなさそうなスリムな体型がソーやキャップとは真逆の魅力を際立たせている。
このロキがサノスの側につくという。
しかもマーベルスタジオの社長、ケヴィン・ファイギが「サノスは、アベンジャーズより圧倒的に強い」と言っている。
とうとうロキが宇宙最強の悪人と組んで、善の側のヒーロー達を倒し、念願の支配者の座に座れる時がきてしまうのか、ま、でも、組むと言っても、どうせ、使いっぱしりぐらいに違いないだろうけど。
宇宙最強の超悪人とその使いっ走りの、その活躍が楽しみで仕方ない。
ただ、一つ問題がある。
超大作みたいだからTVでも予告編をバンバン流すだろう、改めて考えてみると、TVの洋画の予告って、字幕だったか、吹き替えだったか、思い出せないが、もし、吹き替えの予告がたくさん流れて、サノスの吹き替えが日本のアニメの悪者みたいなオーバーアクションで声高な、威厳のない声だったらそれだけでテンションが下がりそうだ。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(2014年日本公開)のブルーレイで吹き替え版を観ればサノスの声がどんなだか分かるのだけど、あの吹き替え版は腹が立つので観たくない。そういえば、マーベル映画の吹き替えって、私が観た少ない作品の中でさえ、キャップはこんな子どもじゃない、とか、トニー社長もこんなチャラい感じじゃない、とか違和感だらけなのに、何故か、ソーとロキの兄弟だけはイメージを破壊してない、というか、『マイティ・ソー』メンバーは父上以外はみんな合っている。
いいなぁ……
『ジュラシック・ワールド:FallenKingdom』
7月13日公開予定
監督:ファン・アントニオ・バヨナ
(42歳)
脚本:コリン・トレボロウ
(41歳)
デレク・コノリー
「ジュラシック・ワールド」続編は恐竜を救う?映画「ジュラシック・ワールド/炎の王国」予告編が公開
クリス・プラット(38歳)がキュートで面白い兄ちゃんを封印して、たくましくて男らしい大人の男を演じてもまた魅力たっぷりだという事を証明した『ジュラシック・ワールド』(2015年日本公開)。
普段は”35歳児”と言われ(今は38歳児だが)本当におバカで面白い事をしてくれるクリプラが別のキャラをやってもちゃんと俳優している姿を見れるというだけでいいのだ、脚本に色々アラがあったって。
ただ興行収入は現在全世界4位の『ジュラシック・ワールド』(じきに『最後のジェダイ』がトップに立ち5位に下がると思われる)よりはだいぶ落ち込む気がする。
『ジュラシック・パーク』も2作目、3作目と観るにしたがって新鮮味がなくなっていきワクワク感も減っていった。『ジュラシック・ワールド』があの爆発的興行成績をたたき出したのは14年ぶりの正統派恐竜映画が久しぶりのワクワク感を取り戻させてくれたからだと思う。
それに14年ぶりのシリーズという事で、どこか大目に見てもらってたような気がするコリン・トレボロウとデレク・コノリーのおめでたい脚本も、2回目となると、もう、そんな温かい目ではなく、正当に手厳しく評価されちゃうんでは、という気がする。更に、ワールド1作目は『猿の惑星:創世記』(2011年日本公開)の脚本家もライティングに加わってたそうだが、続編はトレボロウとコノリー二人だけで書いているそうで、予告編を見ると、やっぱり、というか、B級感が漂ってる気がする。
でも、シリーズが続くにしたがってB級ぽくなっていってしまうのは仕方ないんだろうなぁ……
それに『ジュラシック・パーク』(1993年日本公開)から『ジュラシック・ワールド』続編まで5作も作って、「もう、飽きた~!」って声を覆すために、奇想天外なアイディアとかパニック映画の色んなネタをぶち込んでって、もはやB級映画の態になりながらも、どこか、ちまたの数あるB級品とは一線を画してるように見える。
それはこのシリーズが、人間のおろかさのせいで自然に復讐されるという哲学的なメッセージを保持し続けているからではないだろうか。
原作者のマイケル・クライトン(2008年没)や、原作に惚れ込んで1作目を世に出してくれたスピルバーグ監督(もう71歳)の偉大さを改めて感じます。
私がブログをやめない理由
私がブログを始めたのは、身近に、大作、娯楽作、自分が大ファンの日本人俳優が出てる邦画以外の映画を観に行くほどの映画好きな人がいなかったからだ。
ブログを読んで、コメントを書いてくれた人にコメントを返して、ネット上でもいいから映画についての好きな事や感じる事を語り合いたかったから。
ブログを始めれば、そういう人の1人や2人は見つけられるだろう、とその可能性を大いに信じてたけれど、アクセスが沢山ある、とか、はてなスター(はてなブログでの
”いいね!”にあたる。記事の左下にある星マーク)が沢山つくといいな、とは思わなかったし、その可能性もないと思っていた。
いざ始めて4か月、はてなスターは22件記事を書いて11個だけ。ブックマークは、1個。読者数は1。その読者1の方が以前は、はてなスターをつけてくださっていて、今も読者数1のままだけど、読者一覧をクリックしても、読者はいません。とでてくるので、愛想をつかされたのだろう。ここまでは想定内なのでショックはない。
想定外だったのは、いまだ、1件もコメントをもらえてないという事。ここまで惨状が続くと、心が折れて、ブログやめようかな、と思うのが普通だと思う。
私もやめよう、と何度も思った。しかも、ブログを始めたとたん、30年間、巡り合えなかった”身近にいる映画好きな人”というのが現れたので、こんなに劣等感に打ちひしがれながら、ネット上で映画について語り合える人を探す必要もなくなった。
しかし、予定外の嬉しい誤算が起きていたのだ。
1つの記事のアクセス数が、自分の予想(10くらいだと思っていた)してたのの5倍くらいあるのだ。過去の記事へのアクセス数も入っているのだろうけれど、それでも、こんな内容をのぞきにきてくれる人が50人もいるんだ、と感激!人気ブロガーさんや、はてなスターやブックマークが沢山ついているような”ネット充”なブロガーさんにとっては、1記事で50アクセスなんてのは、スズメの涙、砂漠の露一滴なんだろうが、コメント0、はてなスターたったの11というブロガーにとってはとても嬉しい数なのだ。
あ、でもひょっとすると、50人もの人が見てくれてるのではなく、私の友人の誰かがあまりに可哀想に思って、記事を書くと、50回アクセスしてくれてるのかもしれない、
いや、友人にそんな暇な人はいないし、私の事をそんなに好きな人もいない。ならば、名前も顔も知らない神様のような方が、このブログのアクセス数を増やす為に一人で50回アクセスしてくれるのかもしれないが、そんな人にめぐり逢えたならそれはそれで幸せだろう。
だから、結局、ブログをやめられなくなり、更にしょっちゅうブログの閲覧数を確認するようになってしまった。1か月に多くて4記事しか更新しないから、完璧なSNS依存症にもなりきれないのだけど、あと3アクセスあれば、今月のアクセス数が200超えるから、と、今も旅行中なのにスマホを使ってこの記事を書いている。
どちらかというと、時代とは逆をいく私が、現代病、SNS依存症になりかけている。(ブログをSNSと言っていいのか、どうか分からないけれど)
リアルな世界で対人関係が充実してれば、依存症にはならないと思う。事実、社交下手で普段は淋しい毎日の私でも、たまに旅行だの、イベント多し、だので、人と沢山会って沢山しゃべってる期間は、アクセス数が何個増えたか見てみよう、なんて、頭によぎりもしない。
あと、現実の世界で自分の目標が予定通り達成できて多幸感を味わえていれば、やはり、ネットやSNS依存にはならないような気がする。私は、現実世界はもちろんの事、ブログで時々、コメントをもらう、というちっぽけな目標さえ達成できなかった。
で、アクセス数を見た時、「あ、けっこうあるじゃん(予想と比べて)うれしい!!」っていう唯一の成功感にすがりつきたくて、ブログを続けている。
リア充じゃないから、依存症になった、というお決まりのパターンだ、私の場合は。
今年はインスタグラムがよく話題にあがってた。
若いインスタグラマーの話題で、不思議に思う事があった。他の人とは違う、他の人が投稿できないようなワンシーンを投稿して、”いいね!”を多くもらう快感なら分かる。すごく分かる、「自分ってすごーい!」と感じる事ってすごい多幸感だと思う。でも、他の人もたくさん投稿してるのと同じ場所の写真を投稿してそれに”いいね!”がたくさんついても、それはお互い様だから、の法則のお付き合いの”いいね!”でしかないんじゃないか?それでも、心から本当に嬉しいのだろうか?
いや、お付き合いでくれる”いいね!”でも、褒められたら嬉しいんだろうな、お付き合いでさえ、いいね!(はてなスター)をもらえない私には分からない気持ちだからそう思うんだろう。
ただ、どこかへ行って楽しかったからその写真を投稿するっていうのじゃなくて、”いいね!”をもらう為にわざわざ出かけてって、お金出して食べ物を買ってその写真を撮ったら食べずに捨てちゃうってのは、私と同じで、依存してるんじゃないかなと思う。
超高層ビル屋上で危ないパフォーマンスをして、その動画でお金を稼いでいた26歳の中国人が懸垂中にビルから落ちて命を落とした話も、大金を稼がなければならない事情があったとしても、他の仕事を選ばずにネットを利用してお金を稼ぐという道を選んだのは、私達が今のネット社会の魔力に麻痺しちゃってる事を象徴してる気もする。
世間の若い人達の中でもSNS依存症は増えていると聞く。私みたく非リアな人もけっこういるんだろうか?それとも、同性の友達がいっぱいいて、彼氏、彼女がいて十分リア充な方達でも依存せずにいられない何かがあるんだろうか?
★私の、全然充実してないブログをのぞきに来てくださった方、本当に感謝してます。ありがとうございました。
おかげで、心が折れませんでした。
皆様にとって来年が幸多い年でありますように
今、そこにある危機
壮絶な環境の中で歯を食いしばって生きている若者の、そんな中での恋、友情や裏切りというとても人間らしい要素を描いている2作品を観ました。
『ムーンライト』
2017年日本公開
第89回アカデミー賞作品賞、
受賞
監督:バリー・ジェンキンス(38歳)
脚本:バリー・ジェンキンス
タレル・アルビン・マクレイニー
米国の、貧しさとか教育の不平等とか犯罪に囲まれた環境の中で麻薬に溺れて抜け出せない人々の社会で成長し、生きていくしかない黒人の少年期から大人になるまでを描いた作品です。
『オマールの壁』
2016年日本公開
監督:ハニ・アブ・アサド(56歳)
脚本:ハニ・アブ・アサド
それでも『ムーンライト』は多分ハッピーエンドぽい、救いのあるラストでしたが、『オマールの壁』はその衝撃的なラストを先に知ってしまうと、作品を味わう楽しみが激減してしまうと思うので、ストーリー説明はやめときます。
ぜひ、ご覧になってください。
政治的、宗教的メッセージを前面に出した暗くて抽象的な作品だと誤解してしまいそうですが、ハニ・アブ・アサド監督は、脚本も共同執筆して、自爆テロに向かう二人のパレスチナ青年を描いた『パラダイス・ナウ』(2007年日本公開)で、2006年のゴールデングローブ賞外国語映画賞等、数々の賞を取り、『歌声にのった少年』(脚本:ハニ・アブ・アサド/ザメーゾ・アビー 2016年日本公開)でも、ガザ地区から偽造パスポートで脱出し(ガザ地区にいるパレスチナ人はイスラエル軍に包囲、制圧され、自由に外に出れない)アラブでスーパースターになった男性歌手の実話を感動的な作品に仕上げている楽しませる事が上手な人のようで、この『オマールの壁』もハリウッド映画のように分かりやすくて観やすい作品です。
主演俳優のアダム・バクリ(29歳)が、来日時、インタビューで語った所によると、
ガザ地区やヨルダン川西岸に暮らすパレスチナ人は、イスラエルの検問所を通って大学に行くのに5時間もかかったり、水や電気を度々かってに止められたり、とにかく不便で人権無視な環境で生きているそうです。医療も不十分で、他の国なら助かる病気も助からない事があるみたいです。
トランプ大統領の「イスラエルの首都はエルサレム」発言で、各国でデモが起きているらしいが、勿論この土地の住民はデモさえやらせてもらえないんだろうな……
この作品中でも、主人公は、ガザの居住区を分断して建っているイスラエルが作った壁をよじのぼらないと恋人の家に行けないのですが、壁をよじのぼると、監視塔からイスラエル軍の銃弾が飛んでくる、という死と隣り合わせな生活です。
そんな不便で辛い生活を変える為にイスラエル軍への攻撃や抵抗をして、常に危険にさらされて生きている男達を描いた本作。
『ラ・ラ・ランド』(2017年日本公開)が、壮大な能天気の作り物に思えて仕方ありません。
などと、えらそーな事言ってる私も、「可哀想だなぁ」と他人事に思って高みの見物をしている鼻持ちならない人種なのだけど。
もっと言えば、同じイスラエル国内に生まれたパレスチナ人でも、人々が苦労しているガザやヨルダン川西岸で育ってないし、現在はニューヨークで俳優活動をしてるアダム・バクリも、ヨーロッパで自由に芸術活動しているハニ・アブ・アサド監督も、高みの見物側の人間なのでは?と思う。
以前観てボロボロ泣いてしまったドキュメンタリー。
『世界の果ての通学路』
2014年日本公開
監督:パスカル・プリッソン
脚本:パスカル・プリッソン
Marie Claire Javoy
ケニアのサバンナ。象に襲われないように警戒しながら、片道15㎞を2時間かけて通学する兄妹。
モロッコのアトラス山脈の険しい山道を毎週月曜日、4時間かけて寄宿舎付きの学校へ行く三人の少女達。家族の中で初めて学校へ行ける世代の自分が将来の為に勉強するんだ、と言う真剣なまなざし。
アルゼンチンのアンデス山脈。人里離れた牧場で家族と暮らす少年は、毎朝妹を後ろに乗せた馬に乗って家を出発し、18㎞先の学校に通う。
インドの貧しい家の三人兄弟は、でも、働かせずに学校へ通わせてくれる母親に見送られて、足の障害で歩けない長兄をボロボロの車椅子に乗せ、下の弟2人がどろどろのぬかるみやがたがたで車輪を押すのが一苦労な道を車椅子を押して片道4㎞を歩いて学校に通う。
この作品は、いろんな一般人のレビューで、
「ドキュメンタリーなはずなのに、都合のいい展開があったり、明らかに演出してる、と思われる場面がある」
とか
「やらせじゃん!と感じて興ざめした」
等、ケチがついたりした作品でもあるんだけれど、いつも、ドキュメンタリーじゃない作品に対しては「ご都合主義だ!」とか「リアリティがなさ過ぎて白ける」等、文句たらたらの私が、ドキュメンタリーという最もご都合主義なくさい要素は禁止なはずの映像に対して何故か、いちゃもんはいっさい浮かばなかった。子どもが好きだから感覚がマヒしてしまってたのか、普段、生意気な事を言ってても、結局は間抜けなだけなのか……
どこの国の子も最初から過酷な状況がありありと映し出されていて、それを見ただけでもう、引き込まれて、涙腺崩壊待機状態になってしまうからなんだろうか、そのまま、ラストまで「なんて立派なの、この子達」と思って過ぎてしまった。すくなくとも、自分達がいかに恵まれてるかを思い出し、その気持ちを前向きな方向に向けてくれるドキュメンタリーだったと思います。
私達日本人は、いくらでも勉強できる環境なのに勉強してない人ばかりです。
きっと、伝統的、又は経済的な理由で学ぶのが困難な所の学校には先進国のような形のいじめはないように思います。だって、みんな、こんなに苦労して毎日学校へ行ってるんです、勉強する事で精一杯で余計なこと企んでる余裕はないんではないでしょうか。
今の日本は戦争も占領もないし、麻薬社会で育ち、少年院行き→薬の売人になるような未来しかない環境の子ども達も稀だと思う。それどころか、かってない豊かさを享受している国。
都会では電車やバスが、田舎ではほぼ1人に1台車があって、どこへ行くにも簡単に行けて、何でもネットで注文すれば家から1歩も出ずに生活できるし、子どものお守りはスマホにまかせとけばいい、3Kの介護職は出稼ぎに来るアジア人にやってもらう……
何という楽な生活、でも、私達はその快適さと引き換えに何か大きなものを失っていってるんではないだろうか?
その快適すぎる生活への警鐘を鳴らした作品をwowowで観ました。
『サロゲート』
2010年日本公開
監督:ジョナサン・モストウ(56歳)
脚本:マイケル・フェリス
ジョン・ブランガトー
[あらすじ]
未来社会では人間は自宅にこもりきって、コンピューターで自分の脳とつながれたロボット(サロゲートとは代理人という意味)が外へ行き、自分の代わりに仕事を含め、全ての現実の生活をこなしてくれる。ロボットなので、容姿もスタイルも自分の望み通りの、なおかつ若い体。そんな自分が外で人生を送るのを脳を通じて体感できるし、外で誰かに暴力をふるわれたり、交通事故で死んでしまっても、ロボットが死ぬだけで、又次の代価品を手に入れればいいので、病気以外の事で人間が死ぬ事がなくなったユートピアのような社会。
という事だったが、世の中の事が全て人間の計画通りに進むはずもなく……
★今でさえ、先進国で標準的生活をしてる人々はもう、十分、快適で、安全で、便利な生活をしてるのに、もっともっと進んだ世界を求めたが、それは”バベルの塔”のようなものだった、という感じの作品でした。
ノパソでブログを書き、タブレットで調べものをし、観る映画の7割はネット経由でアマゾンビデオとかNetflixから、という私がどの口からそんな偉そうな事言えるのって分かってるけど、私を含め、今、先進国の人々が謳歌している享楽の果てには何か大きな罰が待ってるのかもしれない、と思う。
電気等の資源の膨大な使用量に伴う環境破壊は今や歯止めがきかない、北朝鮮と米国、そしてその他の核保有国の間で報復合戦になれば、ボタンひとつで全世界が荒涼の大地になる。
トランプが米国大統領に就任して約1年、この年末は、日本人も、いつ、高みの見物人ではなく当事者になるか、わからない時代になったなと実感しています。
師走に観たい作品
12月は日常茶飯事以外に大掃除という”おおしごと”があるので、新幹線に飛び乗って東京まで遠出している暇はない。
にもかかわらず、興味深々な映画が3つもある。
『希望のかなた』
12/2~全国順次公開
製作:アキ・カウリスマキ
監督:アキ・カウリスマキ
脚本:アキ・カウリスマキ
前作『ル・アーブルの靴みがき』(2012年日本公開、監督、脚本、カウリスマキ)から始まる移民三部作を作る、と言い出したのですが、二作目となる本作で終了し、監督業を引退するそうです。
今までの作品は『浮き雲』(1997年日本公開)、『過去のない男』(2003年日本公開)、『街のあかり』(2007年日本公開)(全て監督、脚本、カウリスマキ)に代表されるような、無味、無臭、無表情な人々が見せてくれる優しさと哀しさをしみじみ味わう感じのでしたが、『ル・アーブルの靴みがき』は今まで常にあった現実の厳しさや哀しさを排除し、おとぎ話のような暖かいお話になってました。今作も人々の優しさ成分が強いようです。今作は観てないので、いい加減なことは言えないと思うのですが、『ル・アーブルの靴みがき』は、ちょっと作風が変わったなぁと感じました。
この監督は昔から、”社会の底辺や敗者側にいる人々への暖かいまなざし”から発想されたような作品を作る人ですが、そんな性格には、今の欧州の移民問題の悲劇は黙っていられない物だったという事でしょうか、前作も今作も強く明確なメッセージがダイレクトに表現されてるように思います。(まだ、観てないくせに、書いちゃって、後で困るかもですが)
『オレの獲物はビンラディン』
監督:ラリー・チャールズ
脚本:スコット・ロスマン/ラジーブ・ジョセフ
上記シネマトゥディの記事内にある予告を見ていただけると分かりますが、B級の匂いがプンプンします。
この監督さんはとても癖のある作品(=マイナー)を作る人らしく、フイルモグラフティを見ても、観た事も聞いた事も ないものばかりです。
政治色の強いコメディのようですが、面白いのか受け付けないか、私みたいなミーハーには蓋を開けてみないと分からない、というところに妙に引き付けられます。
『彼女が目覚めるその日まで』
監督:ジェラルド・バレット
脚本:ジェラルド・バレット
製作:A・J・ディックス
ベス・コノ
リンゼイ・マカダム
抗NMDA受容体自己免疫性脳炎という診断が非常に難しい稀な病気に侵された若いジャーナリストの女性が重い精神病と誤診される不条理や恐怖と闘い、病を克服した実話です。
プロデューサーとして名を連ねてるシャーリーズ・セロン(42歳)が映画化を熱望し、実現にこぎつけたそうですが、米国の映画批評サイト、Rotten Tomatoesのプロ批評家枠では22%という低評価です。一般人の評価も59%と好まれてません。話もキャラクターもつまらない(boring)とか、仕事も恋愛も順調な女性記者の主人公がありきたり(uninteresting)とか書かれてます。
なるほど、奇跡の実話ですよ、とか、恐ろしい病気と闘ったヒロインや深い愛情で支えた家族の話をそのまま描くだけでは、映画としてはつまらない、といわれちゃうんだなぁ。米国人と日本人では、感覚も違うんだろうけど、でも、私も、この病気と同じと定義されてるという卵巣奇形腫による辺縁系脳炎をわずらった女性とフィアンセの感動の実話(『8年越しの花嫁』)を、TVの『感動体験!アンビリバボー』で観た時はびっくらこいたけど、別に映画で観たいとは思わないしな、と思った。
ただ、この病気は病名が分かる前は「悪魔つき」と思われて、患者は悪魔や悪霊のように扱われていた、とか、この病気を治すには安楽死させるべき、と思われていたという悲劇を聞くと、「映画としてはつまらない」という言葉だけで、終わらせてしまってはいけないなと思う。
Rotten Tomatoesと言えば 164人のプロ批評家からの評価において100%をもらうというRotten Tomatoes史上最高の評価点をえた『レディ・バード』(12月現在米国公開中、グレタ・ガーヴイグ監督、脚本)の何がそんなに凄いのか?
高3病の女の子の親との確執、悩みやいろんな心の揺れを描き、最後に少し成長しました、というストーリーのようですが、もう、その時期の気持ちを思い出せない位、老いた私は、いつもなら、何でこんな小さな事で悩んだり、反抗すんの?と冷たく見て、素通りしてしまうのだが、この100%満点てのはどこから?何が?なんだろう、と気になって仕方ありません。
シアーシャ ・ローナン(23歳)、予告を見ると、ちょっとブスになった感じ(と言っても元が完璧な美少女ですから)がして、それがまた、より、演技がうまくなったような、より人間臭くなったような感じで、今作でも、2016年の『ブルックリン』(2016年日本公開)に続いてアカデミー賞主演女優賞にノミネートされると予想されてます。
人が死ぬ映画が好きで…
〇〇が死ぬ、というネタばれを基に書いてあります。
どういうわけか、人が死ぬ映画が好きです。
本来なら、世間様の盛り上がりを横目で見て素通りしそうな(ウソです、ガーディアンズが少しでも出る以上素通りしません)『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(2018年4月27日日本公開予定)も、その次の続編『アベンジャーズ』4作目でアイアンマン、キャプテン・アメリカ、ブラック・ウィドウ、ソー等が死ぬかもしれないという噂を聞き、それにつながるストーリーなのか、と思うと、がぜん観たい映画になりました。解禁された予告映像にも、キャップ達が倒れているシーンがありましたしね。予告編、観られた方いますか?サノスの迫力凄かったですね!
人が死ぬ映画が好きな理由①
映画とかドラマって一般的には視聴者には起こりえないような話を観せてくれる物。そのせいで、誰かが死ぬような展開も起こる。起きて当たり前。そこで、ハッピーエンドにするために、死ぬはずの人が死なないとリアリティがなくて興ざめしてしまい、感動したいのに感動できない……
米国ドラマ『ER』ファーストシーズンの第一話を観た時から私は夢中になりました。それまでの日本のTVドラマでは、病院が舞台のドラマで、病人や怪我人がうじゃうじゃ出てくるのにそういう人達が誰も死なない、主人公が難病の少女なのに最終回には何故か治って元気になっちゃってる、みたいのが定番だったように思いますが、『ER』はそんなウソは描きません。事故でER診療室に運ばれた重傷患者は医師達の懸命な治療にもかかわらず、サクサク死にます。
その死を見届けた医師達もいつまでも感傷に浸ってるわけにはいかず、割り切って治療を待っている次の患者の元へいきます。これこそ病院(生と死の瀬戸際の場所)のリアルじゃないですか?
そんな残酷なリアルを描いてるにもかかわらず(そのリアルが根底にあるからこそ)その現場で悩み、奮闘する人間臭さプンプンの医師や看護師達、そして命の瀬戸際に立たされた患者達の姿に本物のヒューマニズムを感じ、感動するのです。
『ER』が日本で放映された後、やっと、今までの患者がみんな助かる病院ドラマからの脱却をした『救命病棟24時』(1999年 フジテレビ制作)が作られました。(でも、リアリズムは『ER』に比べれば甘々ですが)
『ER』の原作、製作総指揮はあのマイケル・クライトン(2008年に66歳で没)です。ファーストシーズンの第3話までの脚本も彼で、「人間は自然には勝てない」という重いメッセージを内包しながら、大ヒット人気作品になった『ジュラシック・パーク』(1993年公開)の作風がこのドラマにも重なる気がします。
『ER』は、2009年に(日本放映では2011年)第15シーズンをもって終了しましたが、今でも私の生涯のベストofベストです。
ちなみに、二番目に好きな海外ドラマは『ER』のスタッフ達が作っている米国ドラマの『シェイムレス』(2011年~)ですが、日本ではまるで人気がないようで、DVDも発売されてません。
人が死ぬ映画が好きな理由②
人の死に方にはその人の価値観や人生観が現れると思うから。
大切な人の為に死ぬとか、自分を犠牲にしても誰かを守りたい、とか。
私は溺れている人を助けに川に飛び込む、とか、線路の中で動かず、自殺しようとしてる人を連れ戻しに行って一緒に電車にひかれる、等の尊い行為は死んでもできない、多分、年老いた親や旦那の為にさえ死ねないと思う。そんな情けない人間だけれど、子どもの為なら死ねると思う。子どもの幸せの為に死ぬような事があったら、幸せだ、とさえ思う。だから『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーVol.2』で、自分の息子(血のつながりなんて無意味な実質的親子)を助ける為に死んだヨンドゥには共感だけでなく憧れすら感じる。
そして、ヨンドゥよりも更に自分と重ねて共感してしまうのが、
『グラン・トリノ』
の主人公、コワルスキーです。
2009年日本公開
監督:クリント・イーストウッド
脚本:ニック・シェンク
『グラン・トリノ』あらすじ
(完全ネタばれ)
フォードの自動車工を50年勤めあげたコワルスキー は妻を亡くし、頑固さゆえに息子達にも嫌われ、人との交流は数少ない友人とのつき合いだけ、自宅ポーチにアメリカ国旗を掲げ、愛車グラン・トリノを心の糧にデトロイトで孤独な隠居生活を送っていた。
燐家のモン族(ラオスの山岳民族の移民)の若者タオが、同郷のギャングにそそのかされコワルスキーの愛車を狙って忍び込んだところを銃で追い払ったのをきっかけに、タオや姉スーをギャング達から救ってやり、彼らから家族のような接待を受け、心を通わせ始める。スーからタオを一人前の男にするように頼まれ、彼に深くかかわる事になった為、タオやスーを家族同然に大切に感じるようになるが、病に侵され生い先が長くないことを知る。タオ達をトラブルに巻き込んでいるギャングをコワルスキーが懲らしめた事が発端になり、タオや姉スーがギャング達に壮絶な報復をされる。
復讐に燃えるタオを家に閉じ込め、コワルスキーは単身、ギャング達の住み家に乗り込と、わざと近隣の住民が自分とギャングのやり取りを見物する状況を作り、ギャングをあおって、自分を射殺させる。目撃者の証言で無防備の人間を撃った重罪を言い渡されるギャング達は長い刑期に服する事になり、タオはギャングとのトラブルから解消され健全な未来を手に入れる。
コワルスキーの遺書には愛車グラン・トリノをタオに譲ると記してあった。
この作品を最初に観た時は私は彼とは違ってました。でも、今は、まだ夫婦揃っているし、知り合いや友人もコワルスキーよりはいても、故郷をでてった息子とは、要件連絡以外のメール、電話をしないので、半年位、音信なしが当たり前、子どもとほぼ絶縁状態な環境はコワルスキーと同じで(これが娘だったら違うんでしょうね)彼の淋しさとか絶望を痛い程わかってしまうようになりました。
血のつながりはない、でも自分を肉親のように慕い、頼ってくれる若者の為なら長くない命をくれてやってもいいと思う気持ち、分かる。誰よりも分かる!と思ってしまう。
世界で一番大切な人のために死ぬ……こんな死に方いいなあ……と。
(でも、射殺されるのは怖いな)
2005年日本公開
監督:クリント・イーストウッド
脚本:ポール・ハギス
も尊厳死とそれにかかわる人々を描いていて登場人物の価値観が試されている。
フランキーは人工呼吸器で呼吸し、首から下を動かせずに生きながらえなければならない絶望より死を望むマギーの願いを聞き、彼女を安楽死させる。だって、娘同然の大切な大切なマギーが、自分で舌をかんでまで死にたがってるんだもの。
このマギーの誇り高い生き方にまず、泣きます。マギーは言います。
「あたしは生きた、思い通りに。その誇りを奪わないで。
今の望みはそれだけ」
次に彼女のその願いをかなえてあげるフランキーの愛情の深さに泣きます。そして息を引き取る直前、マギーが、ボクシングの試合に着る自分のガウンの背中にフランキーが付けた"モ・クシュラ”という言葉の意味を教えてもらった瞬間、更に泣かされます。「愛する人よ、お前は私の血」それを聞いてマギーは旅立ちます。
フランキーとマギー、お互い肉親に見放された二人。その血のつながらない二人の絆の強さ。フランキーの行為にはカトリック団体や尊厳死に反対する人々から抗議があったそうだけど、フランキー自身も敬虔なカトリックなのである。本当に愛してるという事は、その人が心から望む事をしてあげる事ではないだろうか、たとえ死でも。
「安楽死は大罪です」とか「すべては神に任せなさい」みたいなきれい事しか言わない、マギーとは赤の他人の神父とフランキーとの対比が鮮やかだった。
『グラン・トリノ』と『ミリオンダラー・ベイビー』は、
「本当に人を愛するとはこういう事だ」という事を描いていると私は思っている。
この世で死ぬ事ほど辛い事はないと思う。だけど、その最高に辛い事「死」を描いた作品を観ると、人生の真実とか、人間の尊さ、偉さを教えてもらえる気がする。
だから、死ぬ話、そして人の死を丁寧に扱っている映画が好きだ。
★おまけ★
前回の記事で、田舎暮らしの愚痴をさんざん書いてしまい、ちょっと反省しました。
田舎に住んでると、こんないい事もあります。
通勤途中に毎日こんな景色が見れます。
日米田舎者の悲哀 『ローガン・ラッキー』
『ローガン・ラッキー』のネタばれあり
脚本:レベッカ・ブラント
(実はソダーバーグ本人、又は彼の妻の
脚本という噂あり)
映画界から引退したはずだったソダーバーグ監督(54歳)が、脚本を読んで、その素晴らしさに魅了され、監督復帰した作品。
ソダーバーグ監督、この作品が東京国際映画祭で特別招待作品になったため、来日、その舞台挨拶の時、報道陣向けの写真撮影で、カメラマンから笑顔をリクエストされると「No!」と即答したそうだ。
私は『セックスと嘘とビデオテープ』(1989年日本公開)も良かった、そして、
『アウト・オブ・サイト』(1998年日本公開)や『エリン・ブロコビッチ』(2000年日本公開)、『トラフィック』(2001年日本公開)を観て、いい映画をみたなぁ…この監督のセンス、好きだな…と思いましたが、彼の作品全部は観てないので、ファンではないんだと思います。でも、こういう話を聞くと、この人、好きだなぁ!!と思います。
この状況下でも愛想笑いはしない
映画を撮るのをやめたのは、自分の作った作品が、拡大公開されると配給や収入配分の流れ等が自分が知らない、コントロールできない状態になるのが、嫌だったからだ、そうです。
何故、自分でコントロールできないと嫌なのか、要は、大作になると、出資する金持ちや配給会社から色々口出しされて、本当にやりたい自分のやり方で映画を作り、配給できないからって事ですかね?
故に今作からは配給も宣伝方法も、全て自分で管理する映画製作にシフトし、これからもAmazonと協力して個人商店型で作品作りしてくれるそうです。
今作はそんな彼のこだわりで、余計な宣伝費をかけなかった為か、大ヒットとはいかず、製作費回収ギリギリの線の興収だったそうですが、ロッテントマトのトマトメーター(米国批評サイトのプロ批評家枠)で93点という高評価ですし、彼のファンも、私も、そして大勢の人を幸せな気持ちにしてくれる映画を観せてくれて、文句なしです。
「マーケティングはどうやって行われるのか、製作物はどのようなものが作られていくのか、そして資金がいつ、どのような形で使われるのかということを自分自身が確認できるかどうか。どういった風にさまざまな収益が集められて、関わった人々に配分されていくのか、自分できっちりと管理して透明性をもって見られること。実は、これらができなくなったのが、長編映画から身を引いた理由でもあったんだ。自分の作品が拡大公開されてしまうと、どうしてもコントロールできなくなってしまうからね。
、当時はそれしかないという苦渋の思いで行ったことなんだ。映画のことは今も昔も愛しているよ」。当時を述懐したソダーバーグ監督は、「でも、今はハッピーだよ」と満面の笑みを浮かべる。「自分の条件で戻ってくることができたし、ほかの人のビジネスコンセプトに合わせなくてもよく、自分ならではのやり方で仕事できているから、とても快適なんだ」。
ソダーバーグ監督は今回、新たな試みとして、米国内の配給を行う会社フィンガープリント・リリーシングを設立。これにより、企画から公開に至るまでのすべての行程を掌握し、監督が志す“コントロール”が可能になった。「今回はAmazonに劇場面の権利を買ってもらい、そこで得た利益をマーケティングに回しているんだ。契約を金融機関に持っていってローンを組み、本作を作ったんだよ。Amazonは今までであれば全権を買うというのが通例だったから、今回のように部分的に買って、支払ったものが別の用途に使われるという試みをまとめるのに時間はかかったね。ただ、Amazonから“今後の作品も同じ形態でやろう”と言ってもらえたから、彼らにとっても悪い契約ではなかったと自負している」と総括したソダーバーグ監督は、新たなチャレンジに手ごたえを得た様子。
出典:映画.com
【ソダーバーグ監督インタビュー:後編】「ローガン・ラッキー」のために新会社まで
あらすじ:以下を参照ください
感想
ノースカロライナ州の田舎が舞台です。
FBI捜査官以外、出てくる人みんな田舎もんです。
主人公ジミー(チャニング・テイタム)の元妻の現夫も、事業に成功し、他所にあたらしく店を構える余裕がある裕福なビジネスマンですが、スーツをびしっと着たリッチマンではなく、帽子をかぶり、ビール腹にポロシャツ姿の"アメリカの田舎のおっさん"です。
ジミーの娘がコンテストで歌う『カントリーロード』(ジョン・デンバーとかオリビア・ニュートン・ジョンが歌ってるあれです)に感動したとか、ほろり、としたというレビューをよく見たので、何で日本人があれを聞いて泣くんだろう?と不思議でしたが、作品中で、日本語訳された歌詞を見たら、『カントリーロード』には、故郷への郷愁と共に哀愁も漂ってるんですね。
美少女コンテストで、ジミーの娘が、「パパの好きな歌を歌います」と言って、アカペラで、『カントリーロード』を歌いだすと、会場の人々も思わず、歌いだし、みんなで合唱してるような状態になるんですが、その場面からは、故郷への郷愁、賛美よりも、この田舎で全うする自分達の人生の切なさをみんなが歌にしてる、という感じを受け、田舎に住んで、色々あきらめて生きている自分を重ねてしまい、私はそれで泣きました。
近年、米国の富の二極化の浸透で、持たざる側にいる田舎の白人達。その低所得の階層の気持ちを代弁したような作品でもあるので、東京等の大都会と自分達の便利格差にため息つく田舎ものの私は、なんか無性に共感してしまいました。
例えば、観たい映画を1本観る為に(自分が観たい映画はほとんど地元では上映されていない)新幹線で、一万円もかけ、時間も一日かかるので、観るのをあきらめる。
タイ料理のお店もベトナム料理店もキッシュを売っているベーカリーもありません。
洋服店はユニクロとライトオンとしまむらとイオンモールと代々続く呉服屋がやってるほぼつぶれてる総合衣料店だけ。
もちろん、引きかえに、都会より便利なこともあります。
保育園や認定こども園の待機児童数はほぼ0です。
なにせ、若い夫婦や子どもが少ないんですから。
自然も多いし、職場はもちろん、どこへ行くのも車なので、バスや電車の中で、子どもが泣き止まなくて、周囲から白い目で見られるなんて事もありません。
仕事だって、おしゃれな職種にこだわらなければ、いくらでもあります。慢性的な人不足ですから。
そんな子育てに最適な土地。にもかかわらず、移住してくる若い家族はあまりいません。
個人商店もどんどんつぶれて、商店街はシャッターだらけ。郊外には広大な山や林、畑や空地がありますが、人がいないので、荒れていく一方です。そんな景色を見て、子ども達は大学進学を機に故郷を出ていきます。夢や、やりたい事は地元ではかなえられないそうです。そして一度、出ていくともう帰ってこないので、親達はあきらめて、老夫婦ふたりの淋しい老後を受け入れます。
物欲をあきらめるのは、慣れれば大した事ないですが、この精神的な幸せまであきらめなければならないのはとても切ないです。
そんなに嫌なら、都会に越せば?と言われれば、それまでですが、そんな大それたことなんてできない、ふがいないダメ人間です。
そんなひがみ根性がしみついたダメ人間だからだと思います、ストーリーも、登場人物も舞台も、全てがおしゃれでイケメンな『オーシャンズ』シリーズを観る気がしないのは。
というわけで、本作の主人公、ジミーとクライド兄弟の挫折感や悲哀、二人が組むバング兄弟(次男、三男)の間抜けさ、最もプロらしい頼りになりそうなジョー・バング(長男)さえ、どこか抜けてるように見えるゆるさ。
そういう反オーシャンズ的なものが愛しくてたまりません。
そして、ゆるい人達はどこまでもゆるく、憎めなく、できるヤツなFBI女性捜査官や勝ち組の爽やか女性医師はどこまでも鋭く、かっこよく…緩急の効いた上手い演出で、出演時間の少ない二人の女優、ヒラリー・スワンク(43歳)も、キャサリン・ウォーターストーン(37歳)も非常に存在感があります。
楽しくて、観終わった後、又観たい、と思ってしまう作品です。
ただ、セリフで多くを語らず、画で見せる、という洗練された脚本なので、話の展開が、巧妙すぎて、金庫泥棒の作戦の細かい所の意味が1回観ただけでは分からない事がありました。もし、読んでくださってる方で、私と同じ印象を受けた方がいたら、
かるびさんというブロガーさんのHatena blog『あいむあらいぶ』の
【ネタバレ有】映画「ローガンラッキー」感想・レビューと10の疑問点を徹底解説!/祝!スティーブン・ソダーバーグ監督復帰第一作!
blog.imalive7799.com
を読むと、疑問点が青空が広がるようにすっきりします。
かるびさん、とても助かりました。緻密な観察力、リサーチ力、そして洞察力に脱帽です。ありがとうございました。
☆今年は、『ザ・コンサルタント』
『ジーサンズ』
と、犯罪映画なのに、観終わった後、あったかくなる作品が豊作だった気がします。(3本ですが)
不運や貧乏で苦労する庶民を描く時、米国は義賊に変身させて、明るく描きますが、英国は『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2017年日本公開)とか、『おみおくりの作法』(2015年日本公開)とか、容赦ないリアリティで描ききって、何も解決はしない、という作風が多い気がします。国民性と関係があるんでしょうか?
イギリス産で、虐げられた人達が、反撃するクライムコメディって何かありますか?
適材適所の大切さ 『ザ・コンサルタント』
ネタばれあり
予告では隠してますが、
この作品はただのカッコイイ
殺し屋の話ではありません。
その理由をばらして感想書いてます。
あらすじ
高機能自閉症のクリスチャン・ウルフ
(ベン・アフレック)はその天才的数学能力
を生かし、会計士として自立し、
社会で居場所を確保して生きているが、
を請け負い、莫大な報酬を得ている。
危ない連中と仕事するため、身を守る為に射撃の腕
や格闘技の腕も一流である。
”会計士”と呼ばれる謎の男(クリスチャン)の
素性を突き止めるよう、財務局長のキングに命じられる。
一方、普通の会計士として雇われた会社で、経理の不正の
原因を一晩で発見したクリスチャンは命を狙われる大事件
に巻き込まれ、彼を抹殺しようとする組織との死闘が始まる。
監督:ギャヴィン・オコナー
脚本:ビル・ドウビューク
感想
☆良かったところ
1.ベン・アフレック(45歳)がやーっと適材適所に使われた事。
今まで、無表情で、大味で、大根だよね、この人。とばかにしちゃってました、ごめんなさい。それが、自分の個性にあう役(自閉症で表情が乏しい)をやるとこんなに魅力的になっちゃうんだ、とびっくり!
サイボーグのような顔で、愛想笑いもしない、冗談も言わない、分からない。その彼が、自分と似た人や自分を分かってくれる人と触れ合った時に見せる嬉しそうな表情に、おばさんは撃ち抜かれてしまいました。
かばってあげたい、あーだこーだと世話してあげたい(そういう事されるの、嫌だろうけど)……そんな魅力的な主人公でした。
2.応援したくなる不器用な登場人物達。
主人公のクリスチャンをはじめ、クリスチャンと共に命を狙われる経理課の女性社員、ディナ・カミングス(どこか不器用で生きるのに苦労してる感じ)、暗い過去を隠し持つ財務省分析官のメリーベス・メディナ、エリートコースは外れたが、父親としての生き方は正しかった(と本人が言っている)財務局のキングなどなど、他にもクリスチャンの秘書の女性とか、登場人物に向ける目線の優しさ……アクション映画なのに。
主人公や仲間を応援したくなる気持ち。『GotG』に似ている。
(ポロックの絵が重要なアイテムとして出てくるのも『GotG』のコアなファンには嬉しい)
3.既成概念をひっくり返した父親の愛
この作品には主人公の他にも色々なタイプの自閉症の人がでてきますが、自閉症の特性を理解して下さい、というような道徳的意図はないと思います。むしろ逆で、クリスチャンの父親は自閉症児の特性に配慮した特別扱いを拒絶します。なぜならいったん世間に出れば、そういう配慮をしてくれる人ばかりではなく、むしろ配慮してくれない人の方が多いからです。
社会で自立して普通に生きていく為に、父は、クリスチャン自身が、そのやっかいな特性と戦い、彼を異質、怪物と恐れる世間の人々とも戦い、倒していく生き方を教えます。
この父親の逆転的発想はとても衝撃的でした。
私は保育士免許を取ったり、学童保育で働くなど、児童福祉の現場に何年かいたのですが、自閉症児をはじめ、発達障害児に対してのガイドラインは、"人と違うので、特別扱いをしてあげないといけない(悪意のある言い方をすると)、彼らが、安心して過ごせるように特別に配慮しないといけない" というものでした。今もそうだと思います。
私自身もその指導方法を全く疑問に思いませんでした。だって、発達障害の子どもに、いつもみんなと同じように行動しなさい、なんて、死ぬほど嫌で我慢できない事を強いるなんて、ひどい、かわいそうです、単純に考えたら。でも、本人の一生の事まで考えたら、福祉的ケアに頼らず、社会で自立して生きていく為には特別扱いのない環境で仕事し、暮らしていけるように訓練してあげる方が正しいのかもしれません。
初めは、この父親は、自分の子どもが自閉症だと認めたくなくて、普通になるようスパルタ訓練してるのかと思いましたが、スパルタ訓練したのは愛情からだったと分かります。クリスチャンが、大きな刺激を受け、錯乱して暴力ざたをおこしてしまい、警官から銃を向けられた時、父親が盾になり撃たれます。クリスチャンを守ったのです。
☆残念だったところ
クリスチャンは逃避行中に、好意を持ってるディナが気に入るようなホテルをとったり、別れる時に、ディナを褒める言葉を残していったり、人を思いやれる機能は、非自閉症者とほぼ変わらない気がする。そこはやっぱ作り物の世界だな…と。
クリスチャンのディナに対する愛情表現がもっと不器用だったら、リアリティが増してもっと深みのある作品になったと思う。
現実には自閉症者がクリスチャンのように一人で自活できる程度のコミニュケーション能力を取得できるかどうか、素人の私には分からない。でも、能力をそれに合った場所で生かせれば、クリスチャンのように生きられるかもしれない、そうならいいな、と明るい気持ちにしてくれる映画でした。
「自閉症=人と違う=劣っている ではない」
というメッセージをこんなに鮮やかに表現したスタッフ(特に脚本)、頭がさがります
クリスチャンと係わるハーバー神経科の所長(自閉症児の生活施設のような所)は言います。
「彼らは高い能力があるのに伝えるすべを知らないだけかも。あるいは我々が聞く力を持たないだけかも」
ベン・アフレックの無表情という個性を、俳優として"劣っている"と決めつけてた自分も、自閉症を正しくとらえてない世間と同じだったのかもしれない、と思いました。