映画についてのよけいな事 

練りきり作りましょう!

あなたはあなたのままでいい 

※ 人と違う息子をどう育てたか、書いてますが、鼻持ちならない自慢話になってるので、不快な方は読まないで下さい。 

 

『 坂の途中の家』のネタばれをしてます。  

 

WOWOWで放映中の

『坂の途中の家』が面白かった。

面白いだけじゃなく、胸をぐさりと刺してくる。

(ただ、最終回で、主人公 の旦那が、自分がモラハラをていた事に気づいたのか、気づかなかったのか、気づいたとしたら、治そうと思ったのか、が分かる描写がなく、このドラマの根幹が誤魔化されて終わったので、カタルシスを感じられなくて、名作だなぁと思えず、残念だった)

 

 

 

『坂の途中の家』

 (4/27~6/1まで WOWOWプライムにて放映)

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 3歳の娘を育てる専業主婦の主人公  里沙子は、 旦那から、

「普通は~だろ」

とか、

「普通の母親は子どもなんかすぐ泣きやませられるだろ!」

とか

「俺はいつも普通の事言ってるだけだ」

など、常に自分が普通で、お前は自分より劣ってるんだ、というメッセージを送られて生きていて、旦那の親も同じ様に、自分達の価値観、自分達のやってきた子育てが正しくて、それと異なると、即ダメな母親と認定するような人達。

この人達、本当に憎たらしくて、喋り方や表情だけ見てると、旦那は優しくて保守的な、どこにでもいそうな日本人夫だし、姑も、保守的だけど、本当に人が良さそうなおばあちゃん。だけど、してる事はモラルハラスメントという……

例えば、里沙子 が、   

「おっばいの出が少し悪いので、ミルクを足した方がいい」

保健婦に言われたので、ミルクをあげようとすると、姑が、

「母乳を飲まないと頭が悪くなるのよ」

「吸わせてれば自然に出てくるようになるわよ、母親の身体はそういう風にできてるんだから」

と悪気は全くない顔で、お前はダメだニュアンスの発言を連発する。

里沙子は  母乳の出が良くなると言われたら、山芋を必死になって食べるし、チョコレートや生クリームは母乳の出に悪いと聞くと、それを断つ。そんなふうに周りが押し付ける良い母親像になりきろうと、必死になってしまう。

普通なら、「お姑さんのいう事なんて気にしなくていいのよ」と味方してくれるはずの実の母親も、素直に娘を愛せない精神的に問題ありの母親なので、皆から否定されて、ダメ母にされ、精神がどんどん衰弱していき、結果、子どもも可愛く思えなくなる。

そんな主人公と    同じパターンで精神を疲弊され、(故意ではないが)娘を死なせてしまい、逮捕された被告人  安藤水穂  の裁判が 進む のと並行して、

その裁判の補欠裁判員に指名された  里沙子の、水穂と重なる苦悩が明かされていく。       

 

お節介な舅が、里沙子が子育てが上手くいってないから、と児童相談所に個別訪問を依頼したのがきっかけで、里沙子とかかわり、助けようと奔走してくれる児相の職員によって、

夫がしてる事はモラルハラスメントで、夫が、自分をコントロールして支配下に置いておきたいのだと、里沙子は気づかされる。

でも、里沙子自身にも問題がある事が分かる。

モラハラされると、それを100%言われるままに吸収してしまう。

自我がないのだ。

普通じゃない  とか、ダメな母親という言葉に異常に敏感で、人が押し付ける価値観に何の疑問も持たず、染まってしまう。

だが、最後はその間違いに気づく。

集まった裁判員達の前で、

自分も子育てに苦しみ、疲れ、被告人と同じような生活だった事。それは、周りが言う事に振り回され、周りの人間の価値観に自分を合わせようとしていたからだと、

「なぜなら、誰かの価値観に従って生きるのがとても楽だったから」

と告白する。

 

このドラマは、私にも衝撃的な事実を気づかせてくれた。

私の夫もモラハラ夫だという事を。

 

普段は、亭主関白ではなく、むしろ優しい方で、私が風邪などで寝込んでる時に、

「俺の飯はどうなるの?」

なんて言わない。

「作らなくていいよ」

と言ってくれたり、自分で何か買ってくる時は、必ず私の分も買ってきてくれる。

そんなだから、私の実家での評判もすこぶるいいし、職場や外では、

[常識的でいい人]

で通ってる。

でも、あの時のあれって、モラハラだったんだ、と思い当たる事が沢山ある。

例えば、20年前、私はコンビニの駐車場に車を止めようとして、あやまって、店舗に突っ込んでしまった。車止めのおかげで、店内にまで突っ込む事はなく、故に怪我人もなく、ガラスを割っただけで済んだのだが、車がハマってしまい、エンジンをかけても自分で移動させられなかった為、旦那に電話して、会社を抜けてきてもらった。

その時の私に対する旦那の第一声が、

「土下座して謝れ!」

だった。

むろん、旦那に対してではなく、そのコンビニの店主に対しての意味だった。

言われたように、土下座したかどうかは忘れてしまったけど、

[この人って怒ると別人みたいになるんだ]

とか、

[確かにお店にものすごい迷惑かけてしまった、勿論、私が悪い、でも、土下座しなきゃいけない程悪い事したんだろうか?

しかも、土下座しろ、と怒ってるのは、被害者本人ではなく、関係のない私の夫なのだ]

と、とても違和感を感じた。

でも、当時は、モラルハラスメントなんて言葉は普及してなかったので

それ以上考えなかった。

 

普段でも、4、5年前までは、旦那の言った事や、考え方と反対の事を私が言うと、ぷいっと、怒って部屋を出ていってしまい自分の部屋に閉じこもって、ご飯も食べないで過ごし、2、3日は、口もきかない時がよくあった。

昔は、

[ヤダヤダ! いい年して子どもじゃん]

位にしか思ってなかったが、

こういう行動も、他人を自分の価値観で支配できないと、凄くヤダ、という性格からきてるんじゃないだろうか?

この、自分のものさしと違う考え方に遭遇すると耐えられない、という人達って結構いる……いい年した大人でも、いや、大人だからこそ変な自信があって、

[自分が正しくて相手が間違ってる]

と考える人が多いと思う。

 

みんなちがってみんないい

 

21世紀になってから教育現場で言われ始めたこのフレーズ、これは、金子みすゞさんという大正時代の女性詩人の詩の一部です。

 

『わたしと小鳥と鈴と 』

 

わたしが両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴はわたしのように、
たくさんなうたは知らないよ。

鈴と、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。

 

 

出典:イソラボ 

 

昭和の学校では、集団行動の中からはみ出してしまう子は問題児でした。

でも、平成になり、21世紀に変わった頃から、発達障害に対する理解が広がったのと並行して、

【集団行動が苦手だからと言って、即、叱咤するのは適切な指導方ではない】

みたいな、個性を大切にしてあげましょう、みたいな指導法も取りいれられてきて、日本的な集団行動からついはみ出してしまう子どもの親には、[みんなちがってみんないい]という呪文と共に、大分、住みやすくなった感があります。

その21世紀らしい価値観のこの詩を書いた金子みすゞさん、どういう方だと思いますか?

社会より自分や自分の人生を大切にする西欧諸国の女性達のような、いかにも自由な女性だと思いますか?

この人は、自分の娘の幸福の為に自殺した人です。

子どもの為に自分の命を捧げたのです。

  金子みすゞ

金子 みすゞ(かねこ みすず、1903年明治36年)4月11日 - 1930年昭和5年)3月10日)は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した日本童謡詩人。本名、金子 テル(かねこ テル)。

大正末期から昭和初期にかけて、26歳で死去するまでに500余編もの詩を綴ったとされる。1923年大正12年)9月に『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』の4誌に一斉に詩が掲載され、西條八十からは「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛された。

  

生涯[編集]

山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)の生まれ。郡立大津高等女学校(現・山口県立大津緑洋高等学校)卒業。父は、妻(みすゞの母)の妹の嫁ぎ先である下関書店・上山文英堂の清国営口支店長だったが、1906年明治39年)2月10日、みすゞが3歳のときに清国で不慮の死[注 1]をとげる。劇団若草創始者である上山雅輔(本名:上山正祐)は彼女の実弟であるが、幼くして母の妹(みすゞにとっては叔母)の嫁ぎ先である上山家に養子に出されている。叔母の死後、正祐の養父とみすゞの母が再婚したため、みすゞも下関に移り住む。同時に、みすゞと雅輔は実の姉弟でありつつ、義理の姉弟の関係となる。

1926年(大正15年)、叔父(義父)の経営する上山文英堂の番頭格の男性と結婚し、娘を1人もうける。しかし、夫は正祐との不仲から、次第に叔父に冷遇されるようになり、女性問題を原因に上山文英堂を追われることとなる。みすゞは夫に従ったものの、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、後ろめたさからかみすゞに詩の投稿、詩人仲間との文通を禁じた。さらにみすゞに淋病を感染させるなどした事から1930年昭和5年)2月に正式な離婚が決まった(手続き上は成立していない)。みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一度は受け入れたが、すぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求。夫への抵抗心から同年3月10日、みすゞは、娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を遺し服毒自殺[注 2]、享年28〈数え年〉、26年の短い生涯を閉じた。法名は釈妙春信尼[2]

 出典:ウィキペディア

 

当時の社会の慣習 であった父権優先に従って、みすゞの夫は、ただ、自分のプライドや威厳を守りたい為だけの理由で、娘、ふさえを引き渡せ、と要求します。でも、みすゞさんは、どうして、抗議の自殺をしてまで、娘を夫に渡したくなかったのでしょう。

みすゞさんが思った事

ふさえは、あの人と暮らして幸せになれるのだろうか。

あの人がふさえに与えられるのは、お金だけ。

心の糧ではないの。

私はふさえを心の豊かな子に育てたいの。

でも、どうしたら連れていかれないですむだろうか。

みすゞは、いろいろと考えたに違いない。そして。ついにあることを決心した。

自分のいのちを娘のために使うこと、であった。

出典:『童謡詩人

    金子みすゞの生涯』

    矢崎節夫著

    JULA出版局発行

 

この人のもう一つの代表的な詩

 

『大漁』

 

朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ。

浜はまつりの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう。

 出典:イソラボ

 

この方は、何も、食べ物にする為に、動物や魚を殺すのはかわいそうと訴えてる訳ではないです(と思います)

この世は、笑っている人の背中の向こうには必ず泣いてる人がいるんだよという事を伝えたいんだと思います。

そういう考え方ができる、それ故に天才詩人と言われてて、生きていた大正時代でも、10年に一度のすごい才能みたいに扱われていました。それを使えば、自分の未来は前途洋々だったはずなのに、男尊女卑だった時代の封建制度によって、健康を奪われ、大切な我が子が不幸な環境で育てられそうになり、それを阻止する為に、抗議の自殺を選んだのです。

 

私の母親は、勿論、偉大なみすゞさんとは比べようもない程、普通of普通の、日本のお母さんです。

でも、容姿もよくない、頭もよくない、運動神経も良くない、性格がいいわけでもない(むしろ悪い)

ないないづくしの私に、

「いい子にしてないとダメでしょ!」

とか

「もっと勉強しなさい」

とか

「お姉ちゃんだから我慢しなさい」

とかの注文を何もつけず、

「あなたはあなたのままでいい」、そういう目でいつも私を見てくれました。

そして、唯一、私が他の子より進んでた事、読書が凄く好きだった事、絵が上手だった事をもの凄く褒めてくれました。

そのままの自分を肯定してもらって、~しないと愛してもらえないという気持ちを一度も感じる事なく育った私は、その大きな愛情のお陰で大器になった……わけでは全くない

平々凡々な、というより平々凡々でさえない、厳しく色々言われて育たなかったので、すぐに怠けちゃう、人から誉められないとやる気がでない、というぐうたら人間です。

でも、子育てがとても楽しかった。

夫はモラハラ体質だし、息子は他の子と全然違う子で、そのままいったら、私も『坂の途中の家』の主人公と同じ精神状態になる所だったけど、ならなかった。

みんなちがってみんないい、という家風で育てられた私には、世間的な¨普通¨とか、夫の狭い物差しから発せられる価値観なんて¨へのかっぱ¨だった。

息子は大変な子どもだった。何故なら、1・5歳検診の時に、保健婦さんからADHDの疑いあり、といわれ、カウンセリングを組まされた程、じっとしてない豆ったい子だったし、生まれた時から自我が異常に強くて、生後1週間の時、ホルスタインのようにはち切れそうな私の乳を近づけても、おっぱいを飲んでくれない、無理に口に入れようとすると大泣きするので、

「じゃあ、好きにしなさい!」

と怒ったら、言葉が分かるはずないのに、その一言以来、無しゃぶりついて飲むようになったという信じられない事が起きた。なので、世間でよく心配されるらしい【おっぱいを飲まなくて困る】という悩みとは反対の、飲み過ぎて、太ってしまって困る、という悩みを抱えてしまった。

1歳半過ぎて、オムツをとる時も、

「トイレ行こーか?」「このオマルでおしっこしてみよう」

とか、最初は優しく言ってみたが、全く心が動いてないのが見てとれた。その頃には、この人は、人から「あーしなさい、こーしなさい」と言われると、絶対にやりたくない性分だと悟っていたので、反対に、ほっといて、わざと声かけしない事にしたら、声かけをやめた日には、一人でオマルに座って、オムツが取れてしまった。

とにかくじっとしてられないので、公共交通機関には乗せられない、市役所等の公共の場所、たとえ、ファミレスでも、レストランになんて連れてはいけないから行かない。

毎日、ベビーカーで公園へ連れていって、9:00~15:00頃までそこで走り回らせて疲れさせる。公園にいる間も、ほっとくと道路に飛び出したり、他の子にちょっかいをだして本人はいじめるつもりはなくても、結局相手が怖がって泣いちゃうので、常に彼の1歩後ろをついて回って、トラブル回避していた。

住宅街をベビーカーに乗せて歩いてる時は、何か興味があるものを見つけると、どうしてもそこへ入って行きたがる。ブランコが置いてある赤の他人の家の庭に入りたがってしょうがない時は、そのお宅の方に、

「私がそばについてて、壊したり、迷惑かけないように見張っているので、少し遊ばせてもらってもいいですか?」

とお願いして、ブランコを使わせてもらった。

多分、都会でやったら、警察に通報されるレベルだろうけど、のどかな田舎なので、問題にもならず、そうさせてもらう事で、2歳の脳では、何故ダメか、やっちゃいけないのか、理解出来ない事も無理に禁止しないから、息子も母親もストレスがなかった。

子どもの為に外で自分が頭を下げればいいなら、いくらでも頭を下げて、その年齢の脳ではダメと言っても理解できない事は怒らなかった。

自分や他人に危険な事と人としてやってはいけない事以外は。

その後も小学生になった息子が宿題をやったかどうか、一切監視しないでほったらかしてたので、息子は宿題を、朝、学校へ行ってから、10分程で仕上げて出してたようです。

先生に叱られて、痛い目にあえば、改心して、親に言われなくても家で真面目に宿題してくだろうと思ってたら、先生も気がつかなかったらしい。

そういう所が妙に世渡りが上手い。

我が子ながら尊敬する。

世間の普通のお母さん達からしたら、

「尊敬してる場合じゃないでしょう」

と、軽蔑されるだろうが、私は、

[小学生の時は勉強より遊び]

と思ってて、

[勉強というのは、本人が自分からやる気になってやらないと、できるようにならない]

とも、そして、

[親から叱られないとやらない程、勉強が嫌いなのに、凄い我慢して、イヤイヤやって、いい成績取ってエリートになっても、それは本来の自分じゃないから、幸せじゃない]

と思っている。

何故なら、私はガリ勉して、そこそこいい大学に入り、更に死ぬ程勉強して、狭き門だった特別地方公務員に受かった。

世間的には、勝ち組に分類されるだろう公務員だったけど、幸せを感じなかった。

この時、勝ち組の中にいたって、経済的に安定してたって、自分の好きな事してなきゃちっとも幸せじゃない、と気がついたから。

そんな母親の元に生まれてきた息子は、なので、中学にはいるまで夏休みと冬休み以外は家で宿題をやりませんでした。

「勉強しなさい!宿題やったの」

とガミガミ言わなくていいので、ここでもストレスはたまりませんでした。

モラハラ体質の夫が、子どもがあまり好きではないので、私の子育ての仕方とか、教育方針に口出ししてこなかった事も幸いでした。

そんなストレスがない生活だったからだと思う。

小学5年生の時、クラス中にいじめられてる男の子がいて、その子に対して絶対にいじめには加わらず、普通に接してくれる5人の子がいて、その中にうちの子も入っている、だから感謝している、といじめられている子のお母さんから言われた。   

  その時程、この子を育てて良かったと思った事はない。息子の事で1番自慢できる事がそれだ。

本当は、加担しないだけじゃなくて、いじめられてる子を助けてあげないとダメだと思うが、助けてあげて、自分も一緒にいじめられるような人になれる大器じゃないので仕方ない、それに親の私自身が、自分が犠牲になっても人を助けてあげるような美しい心を持ってないのだから、子どもにそれを要求するなんてできない。

 

幼稚園に入る前は、これから毎日のように先生から電話がかかってきて、毎日、どこかの家に菓子折を持って謝りに行かないとならないんじゃ、と覚悟したが、予想に反して幼稚園から高校卒業までの間、先生から呼び出しがあったのは1回だけだった。(女の子や優等生の子の親はその1回もないのだろうけど)

オンとオフの使い分けがうまいらしく、学校へ行くと、先生の言う事を素直に聞く子に変身してたらしい。

「勉強しろ」

と言わずに育ててしまった事が、息子の将来の様々なチャンスを狭めてしまったのでは?と言われれば、その通りで、勉強も努力も嫌いな、上は目指さない子になってしまった。

でも、ここだけは頑張らないと、という時は、火事場の馬鹿力のようなやる気を発する。高校も大学進学も就職も、自分でさっさと身の丈に合った所を選んできて、そこで平々凡々に自分の力で生きている。

私は上昇思考が強く、勉強も好きだったが、息子は違った。この自分とは違う生き方が彼にとって1番幸せならそれでいいと思う。みんなちがってみんないいのだ。

あなたはあなたはのままでいい、そう親に言われて育った事、そう言って子どもを育てた事を思い出したら、運が悪くて一人しか育てられなかった事を差し引いても、私の人生って、実はとても幸運に恵まれてるじゃんと気がついた。もっともっと感謝しなければと思う。

普通の人々の映画

久しぶりに心に沁みる米国映画を観た。ティラー·シェリダン脚本、監督のウインド・リバーだ。 

ウインド・リバー

(2018年 日本公開)

 

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ワイオミング州ウィンド・リバー保留地英語版FWS(合衆国魚類野生生物局)の職員、コリー・ランバートは荒野のど真ん中で少女の死体を発見した。FBIは事件の捜査のために、新人捜査官のジェーン・バナーを現地に派遣した。自然の過酷さを甘く見ていたバナーは、捜査に難渋することとなった。そこで、バナーはランバートに捜査への協力を依頼した。2人は荒れ狂う自然と剥き出しの暴力に直面しながらも、ネイティブ・アメリカンの村社会の闇を暴き出していく。 

 出典:ウイキペディア

 

彼が脚本を書いたクライムアクション映画『  ボーダーライン 』も、同じ様なジャンル、同じ様なストーリーのハリウッド映画がゴロゴロある中、別格級に心に入り込んできて忘れられなかった。

そして、最後の追跡にいたっては、犯罪映画なのに人間ドラマ?と勘違いするほどの出来の良さで、第89回アカデミー賞脚本賞と作品賞を含む4部門でノミネートされた。

 

『ボーダーライン』

(2016年 日本公開)

監督:ドゥニ・ヴィルヌーブ(51歳)

脚本:テイラー・シェリダン

 

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プリズナーズ」「灼熱の魂」のドゥニ・ビルヌーブ監督が、「イントゥ・ザ・ウッズ」「オール・ユー・ニード・イズ・キル」のエミリー・ブラントを主演に迎え、アメリカとメキシコの国境地帯で繰り広げられる麻薬戦争の現実を、リアルに描いたクライムアクション。巨大化するメキシコの麻薬カルテルを殲滅するため、米国防総省の特別部隊にリクルートされたエリートFBI捜査官ケイトは、謎のコロンビア人とともにアメリカとメキシコの国境付近を拠点とする麻薬組織撲滅の極秘作戦に参加する。しかし、仲間の動きさえも把握できない常軌を逸した作戦内容や、人の命が簡単に失われていく現場に直面し、ケイトの中で善と悪の境界が揺らいでいく。共演にベニチオ・デル・トロジョシュ・ブローリン

出典:映画.com

 

続編ボーダーライン:ソルジャーズ・デイも、暮れに公開されました。

 

 『ボーダーライン:

   ソルジャーズ・デイ』

監督:ステファノ・ソリマ

脚本:テイラー・シェリダン

 

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アメリカとメキシコの国境地帯で繰り広げられる麻薬戦争の現実をリアルに描き、アカデミー賞3部門にノミネートされた「ボーダーライン」の続編。アメリカで市民15人が命を失う自爆テロ事件が発生した。犯人がメキシコ経由で不法入国したとの疑いをかけた政府から任務を命じられたCIA特別捜査官マットは、カルテルに家族を殺された過去を持つ暗殺者アレハンドロに協力を依頼。麻薬王の娘イサベルを誘拐し、メキシコ国境地帯で密入国ビジネスを仕切る麻薬カルテル同士の争いへと発展させる任務を極秘裏に遂行するが……。前作から引き続きベニチオ・デル・トロジョシュ・ブローリンが出演するほか、イザベラ・モナー、ジェフリー・ドノバン、キャサリン・キーナーらが脇を固める。脚本は前作「ボーダーライン」と「最後の追跡」でアカデミー賞脚本賞にノミネートされたテイラー・シェリダン。監督は前作のドゥニ・ビルヌーブから、イタリア人監督のステファノ・ソッリマにバトンタッチ。撮影は「オデッセイ」など近年のリドリー・スコット作品で知られるダリウス・ウォルスキー。音楽は前作を手がけ18年2月に他界したヨハン・ヨハンソンに代わり、ヨハンソンに師事していたアイスランド出身のヒドゥル・グドナドッティルが担当。

 

 

出典:映画.com

 

最後の追跡

Netflix配信

監督:デヴィッド・マッケンジー(52歳)

脚本:テイラー・シェリダン

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家族の土地を守るため銀行強盗を繰り返す兄弟と、彼らを追う年老いたテキサス・レンジャーを描いたクライムドラマ。不況にあえぐテキサスの田舎町。タナーとトビーのハワード兄弟は、亡き両親が遺した牧場を差し押さえから守るため、連続銀行強盗に手を染める。慎重派のハワードが練った完璧な計画のおかげで兄弟は次々と襲撃を成功させていくが、刑務所から出所したばかりのタナーの無謀な行動のせいで次第に追い詰められていく。一方、定年を目前にしたテキサス・レンジャーのマーカスは、相棒のアルバートとともに事件の捜査に乗り出すが……。兄弟役を「インフェルノ」のベン・フォスターと「スター・トレック」シリーズのクリス・パイン、テキサス・レンジャーのマーカス役を「クレイジー・ハート」のジェフ・ブリッジスがそれぞれ演じた。「ボーダーライン」のテイラー・シェリダンが脚本を手がけ、「名もなき塀の中の王」のデビッド・マッケンジーがメガホンをとった。

 DVDã»ãã«ã¼ã¬ã¤出典:映画.com

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最近、映画館へ映画を見に行く時間が、体力がない。

いつもはあきらめている地元のシネコンで、字幕版もあるという貴重な機会を与えられたファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生(2018年日本公開)さえ、見に行かなかった。同じく地元で、オスカーレースの中心に上りつめたボヘミアン・ラプソディー(2018年日本公開)も、字幕で観れるのに、まだ、上映してるのに、行く気になれない。

ブログを始めた目的「気の合う人、又は真反対の人からコメントをもらって、映画について語り合う」は、開設後、1年もたつのに1つもコメントをもらってない、という状況で、完全に諦めた。それプラス、去年は和菓子の練り切り講習会をしたり、旅行に行ったりと、友人達との縁が賑やかになり、清水の舞台から飛び降りるような覚悟で、独りぼっち海外旅行にもでかけたりして、いわゆる”リア充”が下りてきた。

自然と、ブログより”リアルの充実”の方が大事になる。

家の居間にこもって、1日中、苦手なパソコンとにらめっこして過ごすとか、ブログのネタのために時間をやり繰りして、映画館に足を運ぶ、とか、アマゾンビデオで問題作を鑑賞してみる、というのをやる気が湧かなくなって、もう、ブログも自然消滅させようと思っていた矢先だった。

ずっと観たくて待っていた作品、きっと、何か深い物、人間の哀しさみたいのに浸らせてくれて、余韻をくれる作品だと思ってたウインド・リバー

普通の人々、あるいは、普通よりもっと苦労している人々の話

やるせなさを抱えて、歯を食いしばって、又は歯を食いしばれずに生きている人々の話にはどうしたって寄り添わずにはいられない。

 

最近、普通の人々の話がものすごく減ってしまった気がする。

スーパーマンやJ・ボンドが世界中を飛び回って悪と戦うような別世界な話でもなく、宇宙人や恐竜や魔法使いが活躍するおとぎ話でもない。

私達と同じような普通の人が何かの拍子に道を踏み外して犯罪者になってしまう、それを又、普通の能力しかない人が職務上追いかけて捕まえる普通の人々のドラマ。

そういうどこか自分を反映できるような映画は、マーベルスタジオやスターウォーズの映画化権を所有してるウォルト・ディズニー社やそれに追随してDCエクステンデット・ユニバースを作ってるワーナー・ブラザーズ 、その他の配給会社の興収至上主義の苛烈な競争化の今、もう、生き残れないのでは、と感じる。

でも、マーベルスタジオが、次々とヒット記録を塗りつぶし、頂点を迎えた去年あたりから、あーいう大作映画って、「もう、飽きたな…」って感じませんか?

スケール、画面の美しさ、テンポ、スリル、セリフの上手さ、綿密に計算された完璧なエンターテイメントを2.5時間思いっきり楽しんだ後、心の中に何か残ってるかと言えば、何もない(私の場合は)

昔は『ファーゴ』(脚本:コーエン兄弟 主演:フランシス・マクドーマンド 第69回アカデミー賞脚本賞、主演女優賞受賞 1996年日本公開)やテルマ&ルイーズ(脚本:カーリー・クーリ 第64回アカデミー賞脚本賞受賞 1991年日本公開) 、

邦画では復讐するは我にあり(監督:今村昌平 主演:緒方拳)みたいな、人間の愚かさ、哀しさ、残酷さゆえに、破滅していく様を描き、ぐいぐい心に突き刺さって離さない作品がもっともっと観れた気がする。

 

昨年の暮れ、NHKBSプレミアムのプレミアムカフェで、

阿修羅のごとく(脚本:向田邦子 1979年1月、1980年1月 NHK放映)を再放送してた。TV画面から登場人物の体臭や体温まで漂ってくるような、人間を、男と女を、妻と夫を見事に描き切った名作だった。アクション物でもサスペンスでもない、ただの家族の話だけど、観ていて、少しも退屈なシーンがない。

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映画好きがこうじてシナリオスクールに入って、自分がドラマの筋や登場人物のキャラクターを1から想像しないとならない、という立場になってから、改めて、向田邦子さんのドラマや脚本を見た時、天才だと思った。この人を超える人はこの先もでてこないだろうなと思った。

その直感通リ、ただ普通の人々を描いてるだけなのに観ていて面白いドラマを書ける脚本家が、今いるかと考えて、全く思いつかない。

コンピューターを駆使しての撮影技術が、飛躍的に進歩した今、「人間を描く」だけでエンターテイメントに仕上げる必要はない。

だから、人間の愚かさ、醜さ、可愛さ、哀しさを描いている作品にはもう、ほとんど出会えないのかもしれない。

阿修羅のごとく の中の1シーン。

枯れ木も同然の老いた夫が、若い女(といっても40近い子持ち)の元に通ってる事を、知っていて、心の中は夜叉のように煮えくり返ってるのに、夫や娘達の前では何も知らない良妻を演じてる母親に、二女が、自分の夫が浮気してる事を愚痴る。

二女「でもね、あたし、黙ってるの」

母親「そうだよ、女はね、言ったら負け」

この母のセリフ、これは、昭和のどこにでもいる普通の妻の、必死で、家庭にしがみついて生きていた妻達の心の中の阿修羅を表している一言だと思う。

この母親は、もう、男とは言えない程、枯れこけた父親をまだ、男として愛してたんだろうか?

男としては愛してない、でも、自分の”物”である。それを誰にも取られたくない、みたいな理屈では説明できない感情だったのでは?と思う。

そういう理屈の通らない感情を、見た人みんなが共感できるセリフや、しぐさや、間で表現できる所が、向田邦子さんの天才である所以なんじゃないかと思う。

人間臭さぷんぷんで、自分や自分の周りの誰かみたいで、しみじみ共感に浸れるような作品は、もうあまり観れなくなっていく気がする。

そして、登場人物の人間臭さが、人間ドラマが、映像技術に負けてないエンターテイメント作品も。

エンターテイメントと登場人物の人間臭さを見事に調和させていた天才スピルバーグ(72歳)も、今や、ただの人という感が否めず、ヒューマニズムとドラマ性たっぷりのアクションエンターテイメントを見せてくれてたリドリー・スコット(81歳)も、昔の気迫がなくなってしまったと思う。

凄く、くだらない事だが、調べていたら、向田邦子さんはじめ、これらの大好きで尊敬している映画人達は皆、自分と同じいて座だった。

性格や好みが、生まれた月や日で、決まるなんて考え方は全く非科学的なんだけど、いて座は半分人間で半分野獣(馬)なんだと、聞くと、「ああ、当たってるなあ」と思う。。

時々、自分の中の野獣や夜叉を、醜い感情を、はっきり自覚するし、人間関係を壊す恐れがない場合はそれを隠す必要もないと思っている。だから、この西洋占星術の神話的な表現もまんざら外れてはなく、又、とにかく人間臭い人達の話が好きなのも、自分が半分野獣の心を持ってるからじゃないかと思ってる。

 

占いなんて興味のない科学的で、知的な方達にとっては、全くつまらない、うざい自分語りを聞かせてしまいました。すみません。

 

で、そういう訳で、アクション映画に人間臭さがなくなってきたと感じる今、テイラー・シェリダンという人の存在は、アクション映画に、濃ーい人間ドラマも要求してしまう私には、最後の希望だ、という事です。

シェリダン監督の次回作は、4月にクランクイン予定の『Fast』で、

クリス・プラット(39歳)主演だそうだ。

キュートだったり、色気たっぷりだったり、いろんな顔を見せてくれるけど、人間の深い業とか、苦悩とかは、今いち、表現できない感じの彼を、どう料理して今までと違う彼を見せてくれるか、おおいに楽しみである。

 

 全くやる気がない、言いたい事がある時だけ、好きな事書いて終わりの私のブログをのぞきに来てくださった方、本当にありがとうございます。

 

もし、最近の作品で、濃密な人間ドラマが見れる映画やTVドラマがあったら、教えて下さい。

米国ドラマシェイムレス』 のような。

(1月15日~WOWOWにてシーズン8放送)

あさのあつこさんの時代小説弥勒シリーズのような。

 

 

 

 

 

 

 

 

プラハぼっち旅行

9/5から3泊5日でプラハへ一人旅してきました。

友人や知り合いに

私「プラハへ行ってくる」

友人「いいねぇ!……旦那さんと?」

私「ううん、一人で」

友人「(口ぽかーんとして)ええーっ!

一様にそんな反応をされたこの”一人で”というward。

そりゃそうだ、

「海外旅行が好きで、度々一人でヨーロッパへいってるの」

みたいな優雅な独身OLさんでもなく、

バックパック背負っていろんな国を周るのが趣味で」

みたいな旅慣れた若者でもない、

田舎のフツーの専業主婦のおばちゃん(でも、実は友人達と比べると、破綻した家庭生活を送ってるという点で、フツーではないんだけど)の私が、ツアーに混じってでもなく、個人旅行だけど、夫婦二人で、というような”フツー”の旅行形態をすっとばして、航空券もホテルも、全て自分で手配して一人で海外旅行へ出かけるという、友人達から見たら、ほぼ冒険と同じ感覚に思えるんじゃないか、というこの一人旅。

ただ、ここ10年位の付き合いの友人がほとんどなので、みんな、私が英文科卒で、NZ.でワーキングホリデーしてた事は知らないか、又は1回聞いても、忘れている、結婚後、家族で海外旅行するときは、航空券とホテルだけ旅行代理店に頼んで、それ以外は私の英語力を頼りに観光してた、という事も1回聞いても忘れてる、という、それもあっての反応なので、実際には”冒険”というとこまでは危険ではない。

それでも、海外での一人旅となると、30年前、NZ.を周遊した時以来だし、ヨーロッパへ行くのも、約30年ぶりなので、私、こんな大それた事していいんだろうか?向こうで襲われて、パスポート取られて、大使館のお世話になっちゃうんじゃないんだろうか?とか、プラハは、特にヨーロッパの人に人気のかなりの観光都市で、街中の写真の観光客達を見ても、みんな、誰か、連れがいて、この中に、アジア人の女が一人で立ってたら、目立っちゃうだろうなあ……やだなあ、目立ちたくないなーとか、不安な事は山積みなんだけど、それでも、行きたいプラハ。自分の目で見たい美しい街。

と、半年前から少しづつ準備して、直前には、旦那を置いて、約1週間も留守にする為のいろんな支度や準備も加わり、旅行前の忙しさをなんとかのり切って迎えた出発日、9/4。しかし、その日、大きな落とし穴が待ってました。TVやネットでもさんざん、報道された、関西国際空港を壊滅させた、あの台風チェービーです。

フライトは中部国際空港から、出発予定時刻は10:30、上陸するのは、近畿地方だし、空港付近が暴風域に入るのは、お昼すぎ、という事で、いままで海外旅行と台風が重なった事はない経験不足の私は「まあ、大丈夫だろう」と、4日の飛行機に乗れると楽観し、前夜、中部国際空港のカプセルホテルに泊まりました。

4日になり、まだ、風なんて全然吹いてない朝8:00頃、出発ラウンジに確認しにいきました。

フインエアー、ヘルシンキ行、出発予定時刻10:30  欠航 

はっきりと、しっかりと、欠航 の文字。

私の乗るフライトだけじゃくほぼ全ての国際線が欠航でした。

しばらく、ええー、嘘じゃないの?と現実感がわかなくて、そのあとやっと、これは現実なんだ、と直視し、絶望し、でも、この事態も、覚悟はしてたので、このフライトがキャンセルになって、どうせ、明日の便へも、空席なんかないだろうから、振り替えも無理という事で、払った航空券代は返ってくるだろうから、明日発の6日間の往復格安航空券をネットで買い直して、ぜーったい、プラハへ行ってやるー!!ビジネスでもいいから行くぞー!と事前に調べていた5日発の格安航空券購入サイトを開き、スマホとにらめっこを始めました。このプラハ旅行はほんとに諦めたくなかった、行けないと、この先ずっとひきずりそうだから。

しかし、今日の各空港での大量キャンセルによる影響か、昨日まではまだ席のあったフライトがことごとく、なくなっており、残ってるのは、エコノミー席なのに、往復60万もするのとか、プラハ到着まで33時間もかかるのとか、プラハのずっと先のシャルルドゴール空港やロンドン、ヒースロー空港みたいな巨大空港で、乗り継ぎ時間は短いし、迷っちゃったらどうしよう、みたいな、それこそ”危険”なフライトしかなく、さすがの私も、諦めました。

プラハへは行けないで、家に帰るんだな、と、でも、払ってある航空券代を返してもらう手続きをしないと,と、しょんぼりと フインエアーのカウンターに行った所、カウンターのお姉さんが、

「明日の同時刻のフライトで予約が取れてます」

と。

なんですと……

私、プラハへ行けるってこと?

何かわからないけど、航空会社で私に聞きもしないで、勝手に翌日便に振り替えてくれたって事?

格安航空券を自分で買って飛行機に乗るのは5回目で、今まで、台風等の天災で欠航される、という災難にあった事がなかったので、相手の航空会社か、又はHISのような旅行代理店(HISのネットの格安航空券のとこで、約19万の往復航空券を購入)で勝手に、自動的に、翌日の便に振り替えてくれる、という事実に驚きました。

しかも、私の前で、「明日の便に振り替えてもらえませんか?」とカウンターのお姉さんに聞いていた友達連れや家族連れの方々は、みんな「空席がございません。一番早くて6日ならあります」と言われてたのに……

更に不思議な事に、私と同じHISでフインエアーの航空券をとったという女性には、4日の欠航が分かった朝5時頃に欠航のお知らせのメールがHISから来て、

「翌5日の同時刻発の便に空席があるので、取りますか?」

と聞いてもらえて、自分で席を選んだり、手続きをしたそうですが、私には、そういう過程は一切なく勝手に翌日の便が予約されていたというわけです。

でも、どんな形でも、翌日の便に振り替えてもらえて、半年以上もかけて、すごいがんばって用意をしたプラハ旅行が夢と消えずにすんだので、ほんとに嬉しかったです。一転して世界がバラ色に見えるってこういう事なんだろうって。

航空券は往復で買い、OPENでなくFIXなので、帰る日を変えられず、旅行期間は1日減ってしまいますが、もし、ずーっと楽しみにして、色々努力して待ったこの旅行自体がパーになってしまったら、

「ああ~ やっぱりー!何をやってもついてないんだ、私の人生は!」

と、ただでさえひがんでいる人生に"とどめのひがみ"を抱えて、これから先、更にひねくれて、暗く、生きる気力を失うのでは……冷静に考えれば、台風月に日程を組んだ自分にも充分非はあるんですが、そんな理性はこういう精神状態の時には吹き飛んでしまうのです。この先の暗い人生を想像して、本当に心配してたので、土壇場でのこの大きな幸運に感謝の気持ちで一杯になりました。

私は一人旅じゃない他の楽しそうな人達に対して、劣等感やひがみを感じてたのですが、私と同じHISで航空券を取って、欠航になったから翌日の便に振り替えできたという女性も一人旅(でも、友達の所へあそびに行く)なので、振り替え便の空席を探すのに、”一人だけ”というのが、優位に働いて、空席があったようです。仕事でよく海外へ行く私の兄弟も、それが理由だろう、と言ってました。

というわけで、私のこの先の人生を守ってくれたフインエアー、大好きになりました。 

一人旅ゆえの幸運もいただいて、何度も神様に感謝しながら飛行機の席に着くと、 更に幸運が待ってました。

上記の、HISで航空券を買って友達(スコットランドに住んでいる)の所に遊びに行くという女性と隣の席になりまして。

この方がとても人あたりが良くて感じのいい方で、更に、パティシエさんなのです。

更に更に、まだ、30代半ばでお若いのに、”本当に自分の作りたいケーキを作りたい”と、故郷の田舎町に、ケーキ店を開いて、一人で(製造に関しては)切り盛りしているそうです。

私の憧れの生き方です。

実は昔から洋の素材を使って作る和菓子作りが好きで、今年の春くらいからは、映画を観ている時間よりも、友人に練り切りの講習会をする準備をしてる時間の方が長い位なんです。

そして、子どもや孫との触れ合いのない淋しい老後を覚悟して、代わりに生きがいを見つけようと、自分の貯金を基に、広い自宅庭に保健所の許可付きのキッチンを要するプレハブを建て、そこで細々とお菓子を作り、地元の道の駅や、JAのマルシェに置いてもらおうという計画を立て、旦那に

「お金も、人手も、何も助けてくれなくていいから」

と許しを得ようとしたら、

「絶対ダメ!」「許さない!」「どうしてもやりたいんなら俺が死んでからにしてくれ」

との答えでした。

そんな私にとって、憧れの人生を送っているこの女性パティシエさんは、勿論、楽しい事ばかりじゃない、日々の苦労も語りつつ、私の、ちょっと変わった素材で作る練り切りの、材料や作り方も、バカにしないで聞いてくれて、洋と和のお菓子の話から、食べ物全般の話まで本当に楽しくおしゃべりしながらヘルシンキまでの約9時間を過ごしました。

飛行機の中で、一人で9時間もなんて、退屈だろうな……と思ってたので、予想に反する楽しい1日でした。

そのパティシエさんともヘルシンキで別れ、いよいよ、プラハへの一人旅のはじまりです。

 

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ヘルシンキ、バンター空港はすごく広いです。

出発ゲートの数は50以上、で、更に50というゲートがAからMまであります。

 

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 そして、この中国語、日本語、韓国語の案内板。

30年ぶりのヨーロッパですが、フィンランドでも、今は、やはり、この3国の観光客のお金が大きな市場になってるんですかね?

 日本から、最短でヨーロッパへ行ける!というのを宣伝文句にしてる

(ヨーロッパ大陸にあるフィンランドヘルシンキ、バンター空港に、他の航空会社より早く9時間半で着く、というだけなんですが)

だけあって、日本人に人気があるんでしょうか?

それとも、このアジア3国の人々は他の地域からの観光客に比べて、ドイツ語、ロシア語はもちろんの事、英語さえも、喋れないのにガンガン海外旅行に来るから、母国語表記等の対応が必至になってるのでしょうか?

でも、日本人に関しては、学校で英語を、最低でも6年は勉強している人がほとんどだと思うので、観光で使う程度なら、本当は、必要にせまられれば、単語を並べて会話できるとおもうのですがね。この「セルフサービストランスファー」という言葉も、わざわざ日本語に直さなくても、海外旅行に来るような人ならみんな、英語表記だけで十分意味分かるでしょうに、と思うのですが。

 

プラハ1日目の宿は3星ホテル、「ホテル サルバートル」です。 

 

 旧市街の繁華街の中にあり、併設レストランも美味しいという口コミでしたが、2泊の予定だったのが、台風の欠航のせいで1泊になってしまい、翌日、すぐに別のホテルに移動したので、そういう良さはわかりませんでした。

ただ、ここのホテルマンの方々は、とても信頼できて、すごく助けられました。4日の当初の出発日に、

「台風のせいで欠航になり、今夜は泊まれないので、キャンセルするけど、明日行くので、明日の部屋は取っておいて欲しい」

と、メールしたのですが、

もし、このメールが届かなくて、又は見てもらえなくて、今夜、ノーショウ(通知なしの不泊)なので、今夜も明日の分も両方部屋をキャンセルされちゃったら、明日、プラハについて泊まる所がなくて困る、と恐怖を感じ、自分の送ったメールを見てくれたか、確認を得たくて、メールの最後尾に、

「できる限り早く返信をもらえるとありがたい」

と付け加えたら、先方は、午前4時でしたが、30分もたたずに返信をくれました。

これが、タイとかだと、メールを見てない、で、ノーショウだから、2泊分さっさとキャンセルしちゃう、そして、そこにもし予約が入ったらさっさと入れちゃう、そして、明日の部屋を無くされた私は路頭に迷う、みたいな事が十分ありえるのです。

チェコ人は、仕事に対しては真面目で、約束した事は必ず守ってくれる、信用できます」

と、在チェコ17年のJTBのガイドさんが言ってましたが、私もそう感じました。プラハで泊まったもう一つのホテルも、宿泊のリコンファームのメールをしたら、半日で返信がちゃんと来ました(日本に住んでると当たり前の事に思うでしょうが)

日本人と相性がいいような気がします。ただ、タイ人はいい加減だけど、愛想がとてもいいが、チェコ人のサービス業の人々は愛想がよくありません。ついこの前まで社会主義国だったなごりだそうです。

プラハ2日からの宿はカレル橋の西側の、城下町の中、プラハ城まで徒歩15分の

4星ホテル、ウパヴァです。 

 

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 外観もプラハらしい、可愛い洋館で、部屋の中も、やはり、ヨーロッパ!という感じの、貴族っぽいインテリアの格調高い部屋ですが、この部屋の凄さはそこではありません。

with Castle View という表示付きで、他の部屋より少し高いのですが、

 

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部屋じゅうの窓からプラハ城が見れるのです。  

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トイレにも窓があって、プラハ城が見れます。

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このトイレの南側には浴槽つきバスルームがあり、やりたければ、浴槽につかりながらプラハ城を眺める事もできるという贅沢さです。

 

窓を開けて見る朝のプラハ

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 夜のプラハ

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 正味、2日しかいれなかったプラハを、それでもかなり味わえた気分がするのは、2日間、この部屋で、常にプラハ城の景色を堪能できたからだと思います。

このホテル ウパヴァも本当に泊まって良かったと思いました。 

 一つ、お節介な事を書きます。

日本人によるプラハのホテルの口コミに、

「ドアの鍵が開けつらくて困った」「鍵の開け方がよくわからなかった」

というのが、よく出てますが、私も、同様でした。

鍵穴に普通に鍵を入れて、普通に回しても、開きません。

「どーしよー、部屋に入れなーい」

と、毎回、脂汗を流しながら、5分位、悪戦苦闘し、何かの拍子に開いてくれて、やっと入れる、という具合です。

VELTRAの「プラハのキュートな雑貨店巡り」というオプショナルツアーで来てくれた日本人女性ガイドさんが、とても親切で、優しい方で、鍵の事をぼそっともらしたら、ホテルの部屋まで来てくれてプラハ式(ヨーロッパ式?)の鍵の開け方を教えてくれました。

開けるときは、日本とは逆に「左に」回すと。

もし、このブログを読んで下さった方で、プラハへ行かれるような事がある方は参考にしてください。 

 

さて、勿論、ホテルへ泊まるのが目的で行ったわけではないプラハ

この美しい街が見たくて。

上から見るとこんな風。

(写真撮影の技術がなさ過ぎて、美しい街に撮れてませんね……)

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 下はこんな感じ。

  ロマンチックで素敵な路地があちこちにあります。

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出典:安立清史のHPとブログ プラハの「新世界」

ここは行きたかったのに行けなかったので、他の方の写真を借用しました。 

 

 

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 勿論、中世の街並みの中のカフェもレストランも素敵です。

が、”ぼっち”のアジア人女には場違いな感じがするので、一軒もはいりませんでした。

 

 

 

 

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あ、ここはプラハ城の横にあるスタバの屋外テラスです。

JTBの女性ガイドさんとプラハ城の中のロブコビッツ宮殿の美術館をたっぷり見た後で、ここに寄ってもらったので、ぼっちじゃなかった為、気後れせず、スタバ店内にも入れました。

ヨーロッパで行った事があるのは、シャモニー、ツェルマット、グリンデルワルド等、山や自然が主役の山岳リゾートか、やたら大きくて古い建物ばかりのウイーンとか印象の薄かったザルツブルグとか、だけなので、こんな見渡す限りオレンジ色の屋根のかわいらしい古都は初めてです。 

 

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 テラスの下にあるスタバ店内の窓からも可愛い景色が一望できます。

 

 

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ここはプラハ城からその下の城下町に下りていく新登城道という人気スポットです。

フジTVドラマのだめカンタービレ(2006年10月~12月放映) で、プラハでの撮影の時に背景になり、人気も倍増したとか聞きます。

私はあのドラマのファンではありませんが、

プラハに「たとえ、一人旅でもいいから来たい」と思ったのは、この景色が見たかったからです。

何故、それ程までに見たかったのか自分でも分かりませんが、

この景色に代表されるような

[両側に中世の洋館が並ぶ、ちょっと哀愁が漂う階段とか路地裏]

がすごく好きみたいです。

 

プラハって、観光スポットの約3キロ四方は、ホテル、レストランは勿論、スーパーマーケット、病院さえも、ほとんどの物が中世風の建物の中にある、という点で、パリやロンドン等の有名な観光地より凄いと思いました。 私はパリにもロンドンにもローマにも行ってないのですが、ネット上で見て比べてそう思いました。

 

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 この建物はアルバートというスーパーマーケットです。

 

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  ここは私が入った海外旅行保険で、プラハでキャッシュレス診療が受けれると、記載されていた病院です。

 

 プラハの面白い所は、街の中に、綺麗な物や可愛い物に混じって不気味な物がデスプレイされている所です。

  

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 これは、旧市街広場近くのフソヴァ通りにある

「ぶら下がる男」

です。

 その他にも、この中世の世界に迷い込んだような街に、全く合わない前衛的な物が出現します。 

そのほとんどは、私より3歳年下のダヴィッド・チェルニーというチェコ出身の彫刻家の作品なのですが、まあ、ほんとに、ブラックです。

nicolenaworld.com

このアーテイストの特異な作品を受け入れて、街中に展示するプラハの人々のセンスって……

人間て、毎日、こんなメルヘンチックな建物に囲まれて暮らしてると、逆に変な物、シュールな物に惹かれるんでしょうか?

このアンバランスさも妙に魅力的なプラハです。 

ちなみに、他のヨーロッパの観光地と同様に、プラハでも、クリスマスシーズンになると、街中に電飾の飾りがつけられ、クリスマスマーケットで賑わうそうですが、サンタさんが子ども達にプレゼントを届けに来るという概念は全くないそうです。なので、街中のどこにもサンタクロースのフィギュアはないそうです。

それから、首都のプラハにこんなに教会が沢山あるのに、この国の6割の人が無神論者だそうです。これはつい26年前まで共産主義国だったからだそうです。

ヨーロッパのメジャーな観光地とちょっと違う感じ、東欧ぽい所(本当は中欧なのですが)がまた新鮮で惹かれます。 

 

人間が住んでる所なので、街中には、こんな美しくない物も勿論点在してます。 

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普通の方はこのようなお見苦しい写真は載せないと思いますが、”観光地の裏側”の部分にも興味がある性格なので、ゴミがよく見えるように、大きな写真でのせてます。

気分を害してしまいましたらすみません。

それでも観光客が多いスポットでは、お掃除に力を入れて、観光地としての資源を大切にしているようです。

朝、9時前は、街中のそこかしこで、オレンジ色の服を着た清掃業の方々がゴミ収集やお掃除をしてます。

 

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 昼間は観光客で埋め尽くされ、渋谷駅の前のスクランブル交差点みたいになるカレル橋でも、人の少ない朝の時間帯に大きな掃除機みたいので、ゴミを拾ってました。

 チェコ共和国の平均月収は月15万、国全体の年間GDPは東京都の1/5

だそうですが、そのGDPの中で、観光による収入は、自動車製造業についで、大きな比重を占めているようです。

 

プラハぼっち旅行で分かった事

プラハのようなロマンチックな街は、アツアツの恋人同士か、娘か女友達といければ、もう、最高ですが、

でも、そうではなく、うちのように、奥さんが、旅先で、「ねえ、あれ、綺麗だねえ!」とか「これ、美味しいね!」と、色々話しかけても、自分の興味がない事には、ぶすっとして、返事もしないような夫と二人で行くくらいなら、一人で行って、現地で頼んだ女性ガイドさんと、わいわいキャッキャおしゃべりしながら観光する方がずーっと楽しい。

ただし、BELTRAは4hr.で約1万円、JTBは8hr.で約3万強かかった。

(一人参加で申し込むと、基本料金の倍取られる為)

その他にもぼっちゆえの不便がありました。

レストランやカフェ、ポスポダ(プラハの居酒屋)は、みんな友人同士、家族連れでわいわい賑やかにしてるので、東洋人のぼっちの女が一人で入っていって、一人で座っていると、とても場違いな感じがするので入れませんでした。なので、チェコの名物料理も、ポスポダでビールというのも経験できませんでした。

ホテルの朝食も、、他に一人で食べているおじいさんもいましたが、やはり、一人で、テーブルについて食べていると、全然美味しくなくて、固形物が喉を通らなくて哀しかった。

又、プラハの名物の夜景観光や教会コンサート(夕方又は夜)へ行きたかったのですが、そして、観光スポットのある街の中心は、夜遅くまで、観光客がうじゃうじゃいるから、女性が一人歩きしても、怖い事はないよ、という口コミをいくつも読んでましたが、私は警戒心が強いので、夜は出歩けませんでした。

でも、旅なれている方だったら、女性一人だけでも、レストランに平気で入れるだろうし、夜景観光も、もし、私がまたプラハへ行くなら、2度目は、好奇心が警戒心に勝ってしまい、夜、出歩きまくってしまうと思います。

そういうわけで、周りを見回して「一人なのは自分だけか…」と劣等感を感じつつも、

① 行きたい所に行って、いたいだけいれる自由度

② 現地ガイドさんと1対1ゆえに、現地の話がたっぷり聞ける

③ ガイドさんと出かける時以外は、事情もよく知らない異国で、自分しか頼れない

  →ちょっと冒険気分を味わうようなワクワク感

 

そういう物を味わえるという点でかなり楽しかったです。

普段、淋しい淋しいと言ってるくせに、旅先で淋しいのは平気なんだなぁ……と自分でも驚きました。

この、好奇心の強さが体や精神のいろんな事象を凌駕してしまう所が、多分、いて座の長所でもあり、短所でもあるところじゃないかなと思います。

人には持って生まれた運があるといいますが、私は家族運がないのだと思います。私が”フツーの幸せ”だと思う事、娘が一人はいて、孫がいる明るい老後を想像できて、自分や家族が重い病気や貧困で苦しむ事もない、そういう人生を普通に生きている友人達、又は息子しかいなくても、その息子が成人後も親の住む地元に残って暮らし、淋しい思いをしてないお母さん達が大勢いるのですから、私は子どもとの縁は薄かったのでしょう。その代わり、母親になっても、子どもの都合に影響されずに、やりたい事を自由にやれる運をいただいたんだと思います。

私の友人達は、お姑さんと同居してて、こんな平成の時代なのに、”嫁としてお姑さんに仕える”生活をしてる人とか、もう成人してはいても、その子どもの世話や心配事で私みたいにやりたい事にお金と時間をつぎこめない人等、私と違う苦労を抱えていたりします。

私の場合、義父母は二人とも、まだ若い時に他界してしまっていて、私は長男の嫁でありながら、嫁姑の苦労はほとんど経験してませんし、実家も、父が脳梗塞で半身不随になった後、母が、自分だけでは介護できないからと、介護付き老人ホームに父を入所させる事ができる経済力がある家だったので、介護の苦労も経験なしです。息子も平々凡々で、親を心配させる事は何もしないという点では非常に親孝行な子なので、血縁関係で大変な思いをした事がありません。

淋しさと引きかえではありますが、そういうしがらみが一切なくやりたい事がやれてしまうのです。

この自由をもっと社会の役にたてる事に使えばいいのに…

JICAのシニア協力隊に入れるような専門技術と度胸があれば、家の中で愚痴だらけのブログをぐじゅぐじゅと書いてたりしないんでしょうが…… 

でも、この淋しいけど、自由なのが、自分の持って生まれた運なんだと、しみじみ分からせてくれた今回のプラハ旅行は楽しいだけでなく、大きな勉強をさせてもらった一人旅でした。

 

 

※おまけ 

 

pocketalk.jp

 

 ポケトークという便利な機械ができたせいで、海外旅行に必要だから、英会話の練習やリスニングの練習しなきゃ、という気持ちが薄れてきちゃった、という方はいませんか?

私は「ポケトーク、レンタルしてけばいいじゃん」と思うと、この先海外旅行に行く為に英語の勉強しなくちゃ、という気持ちに迷いが生じて、がんばれなくなりそうです。

これからって、通訳や海外観光地のガイドの需要がぐっと減ってしまうのでは?

大学の英文科も、他の言語の学科も、近い将来、存在意義がなくなってしまうのでは?だってポケトークがあれば、母国語以外の言語を覚える必要がなくなってしまうのです。

今、高いレッスン代を払って、子どもに英会話を習わせている親達は多いと思いますが、そのレッスン代も、将来無駄になってしまうかも、と不安になったりしないのでしょうか?

小学校から英会話の授業を始める制度をスタートする文科省、そして、それに右往左往させられてる現場の先生方にとっても、このポケトークは葛藤の種になるんじゃないのだろうか?と思う私です。

 

 

また、世間で絶賛されている作品にケチをつける 『万引き家族』

.

万引き家族』『誰も知らない』

そして父になるのネタバレがあります。

 

 この記事には、

仕事は嫌だけど、家族を食べさせるために、毎日一生懸命働いてる男の方。

人の悪口は言わない、聞きたくない人。

心の美しい人。

とにかく前向きで強い人。


が、読むと不快になるかもしれない内容があります。

そういう方はお読みにならないで下さい。

せっかくアクセスしてくださったのに、申し訳ありません。




 ä¸å¼ã家æ

 

 万引き家族

(2018年6月公開)

 原案、脚本、監督、編集:是枝裕和(56歳)

 

あらすじ

高層マンションの谷間にポツンと取り残された今にも壊れそうな平屋に、治と信代の夫婦、息子の祥太、信代の妹の亜紀の4人が転がり込んで暮らしている。彼らの目当ては、この家の持ち主である初枝の年金だ。足りない生活費は、万引きで稼いでいた。社会という海の底を這うような家族だが、なぜかいつも笑いが絶えず、互いに口は悪いが仲よく暮らしていた。 冬のある日、近隣の団地の廊下で震えていた幼い女の子を、見かねた治…

 出典:Filmarks

 

 

 

私は子どもが好きです。

なのに、病気等、運命の巡り合わせで、息子一人しか持てず、その彼も都会で完全自立してしまい、金の切れ目が縁の切れ目となり、実家へ来るのは、年2,3日、必要事項のみ会話してすぐきれる電話も年に10回以下という、ほぼ赤の他人状態です。

子ども嫌いなとこも含めて、性格、価値観、食べ物の好み、ほとんどの要素が正反対な主人(なら、なんで、結婚したんだ?と聞かれれば、結婚前はお互い本性を隠してたり、女の私が経済的安定を優先して妥協してしまったからとか、私達の世代ではよくある理由です)と広い家で仲良くもなく、楽しい会話もなく淋しく暮らしてます。

ただ、保守的で、子どもって可愛いより面倒くさいと思っている主人は全然淋しくないようで、私が、

「淋しいから里親になりたい、夏休みとか冬休みだけ預かる週末里親でいいから、その期間も子どもの世話は全部私がやるから、そして、それでもらった謝礼は全部あげる、だから、夫婦として、里親面接や里親講習に一緒に参加してほしい」

と頼んだ時も、

「絶対にヤダ!」

と、とりつくしまもない。まあ、普通の日本人は皆こういう考え方なんでしょうが、自分達の子どもでさえ、「大学行かせる金が大変だから、二人目は欲しくない」と言った人ですからねぇ。

仕事(と出世)は順調で、平日昼間は、会社で勝ち組気分を存分に味わい、夜と土、日は、100%自分の思い通りにできる事、プラモ作りとオートバイと、その分野の情報のYou Tubeを見て過ごすという、今、人生で一番幸せな時が来たと思って生きているような主人。

今は我が世の春だけど、定年になり、会社から放り出されたら、自分の周りの同年代は、孫や子どもが家に 出入りする明るい老後を送っている年寄りばかりなのに、自分は孫もいない、子どももいない(も同然)淋しい、可哀そうな老人になるんだ、なんて1秒も考えた事ないんだろうなぁ。

そう言えば、うちの旦那、そして父になる(2013年公開)のあの鼻持ちならないエリートの父親(福山雅治さん演じる)に似てるなぁ……顔じゃなくて中味が。

リリー・フランキーさん演じるもう一人の父親=経営不振の電気屋の店主で、出世や裕福さみたいな”成功”とは程遠いけど、人情があって、子煩悩な、あーいうタイプとどうして結婚しなかったんだろうなぁ……

是枝監督って、この万引き家族が脚光を浴びて、”福祉の網からこぼれ落ちた人を見殺しにする社会への怒り”を作品にする社会派監督みたいに言われてるけど、私は個人的には、この人は、勝ち組が嫌いで、圧倒的に負け組が好きでその味方をしたくて映画を作っているように感じる。

そして父になるでも、海よりもまだ深く(2016年)でも、勝ち組の男と負け組の男が出てきて、双方を対比させるんだが、まあ、勝ち組の男は、ほんとに感じが悪い。

で、そして父になるでは、今まで、何にたいしても、負けた事のない裕福なエリートとうさんが、つぶれそうな電気屋の店主の貧乏とうさんに負ける…完敗する。子どもに愛されるという項目で。貧乏だけど温かい父親に育てられた男の子は、血がつながってて裕福な父親より、貧乏な父親を選ぶのだ。こんなに気分のいい展開はない!


そんな風に思う

私が、この凄くあったかそうな”万引き家族”という疑似家族に憧れないわけがない。

治や信代が初枝と暮らしてるのは、初枝の年金がないと暮らせないからだけど、でも、彼らと初枝、二人の子どもとの絆はお金だけではない、彼らは価値観が同じだ。そういう相手とは簡単に心がつながれる。 

そして、血のつながりよりも心のつながりの方が強いに決まってるのである、

血を分け、手をかけて育てた息子と私とのきずなは、ああも簡単になくなってしまったのだから。

樹木希林さん演じる柴田初枝もそうだ。息子が二人もいても、縁が切れてしまってる。

でも、幸運にも赤の他人達と肩寄せあって暮らせて、全然淋しくない老後を送り、血のつながりのない家族に囲まれて死ねた。

うらやましくて仕方がない。

私も、その気になれば、同じ事ができるだろうか?

ああなるにはどうすればいいんだろうか?

ネットで子どもや孫が買えたらいいのに、せめてレンタルできたらなぁと本気で思う。

それなのに、あの暮らしに違和感を感じるのはどうしてだろう?

確かに、赤の他人同士でも、家族のように暮らせば淋しくないし、淋しくない事=幸福なんだろう、でも、その生活が不健康な生活だったら?

又、心でつながる家族がいる幸せと引き換えに、いつ刑務所に入るか分からないような不安を抱え、明るい未来を想像できない生き方をしなきゃならないとしたら?

血のつながりなんてなくていい、本当に自分を必要としてくれる人と生きたい、と思ってる私でさえ、思うのだから、普通の日本人はもっと理解できないというか、共感できないのでは?と思う。

特に、虐待されてた子どもを勝手に連れてきて育てている事に。

虐待されてた祥太やりんを連れてきて自分の子どものように育ててる事はむしろ人助けである。なのに、法治国家では、それが誘拐という犯罪と定義されてしまう不条理。

こういう不条理が、又、是枝監督の好きなネタなんだろうなぁ……

と、彼の大ファンでもなく、フイルモグラフィ全部を観てるわけでもないのに、知ったかぶりして言いたくなってしまう。

初めて観た彼の作品が『誰も知らない』(2004年公開)という不条理の極みのような映画だったから だろうか。

12歳の長男を筆頭に、4人の子どもを次々と産んだ女。でも、子ども達より、新しい男との愛を楽しむ方が大事で、アパートに4人を置き去りにして、消えた。

こんな勝手で母性本能ゼロで、「育てられないから中絶しよう」と考える事もできない未熟な子どもが、子宮だけは大人で、健康で、次から次へと妊娠し、簡単に出産できてしまうという不条理から始まる物語。

万引き家族には、是枝監督が20代で、ドキュメンタリー監督として映像作家になったときから持ち続けている”福祉の網からこぼれ落ちた人を見殺しにする社会”への義憤が強く主張されてるという意見には全く同意だけど、

でも、同時進行で見せる弱者の種類が多すぎて、一つ一つが、あまり胸に刺さらない。

ネグレクトという虐待の被害にあっている子ども達を、淡々と、静謐に描いていた

『誰も知らない』の方が深く痛く胸に刺さった。子どもが一人死んでしまうという最悪の結末があったからかもしれないけど。

私は是枝監督の、ドキュメンタリーっぽくて寡黙でリアルな所、登場人物を鋭く風刺するところが大好きで、福山雅治さん演じるそして父になるのエリ-トサラリーマンや、『三度目の殺人』(2017年公開)の人間としての感情より、いかに裁判で勝つか(減刑を勝ち取るか)だけで動くエリート弁護士等の”勝ち組”達の鼻持ちならなさと、本作の柴田治(リリー・フランキーさん)や海よりもまだ深くの篠田良多(阿部寛さん)の”負け組”達のダメダメさ、情けなさが、本当に鮮やかで、いつも楽しませてもらってる。

でも、この万引き家族に関しては、いつものリアル描写より、ご都合主義な所の方が目立ってる気がした。

例えば、祥太が、万引きした後、警備員達に追われて逃走中、足を怪我して病院に運ばれた為、警察に、この万引き家族の色々な悪事がばれてしまい、信代が一人で全ての罪をかぶって服役、治は安アパートで独り暮らし、祥太は擁護施設に引き取られ、りんは実親へ返されるのだが、映画の前半で、虐待されていたりんを信代達が勝手につれてきてしまった後、2カ月たってもりんの捜索願を出さなかった父親と母親が、虐待してるのではないか、と警察や児童相談所に疑われてTVのニュース(だかワイドショーだか)に出ているシーンがあったのに、いざ、りんが見つかったら、児童相談所は、りんを、簡単に二人の元に返し、それを受けて、二人の親に取材しているマスコミの人達も、虐待の疑いのあった夫婦という扱いは全くなく、祝福ムード一辺倒で、

「良かったですねぇ」

みたいな反応とか、

「帰ってきたじゅり(りんの本名)ちゃんが最初に食べたのは何ですか?」

と尋ね、実母が

「オムライスです」

と答えると、

「それはお母さんの手作りですか?」

実母

「はい」

と、虐待の疑いのあった夫婦が、子どもを連れ去られた悲劇の親という扱いに変わってしまっている。

りんの失踪が警察や児相に露見してしまった時に、虐待が疑われたのだから、児相が色々調べて近所の人の証言等からも「虐待のおそれのある夫婦」だとわかっただろうに、児童相談所が子どもを穏便に返しちゃった事はとても不自然である。

マスコミのレポーターの誰かが、あの場面で、

「ジュリちゃんが連れ去られた後、2カ月も捜索願を出さなかった事で、虐待の疑いをかけられていた事について、どう思いますか?」

と聞くとか、

児童相談所が一生懸命、介入したが、それでも、実親の虐待の決定的証拠が見つけられなかった、それで保護できないから、仕方なくりんを実親の所へ返したとかの描写があれば、自然だったし、そういう児童相談所の権限のなさや虐待を取り締まる法律や制度の甘さこそ、社会で問題になってる事なのに。

何故、こんなunrealな展開にしたのかなあ……りんが、他人同士でも心から慕っていた万引き家族と引き離されて、血がつながってても虐待してる両親と暮らさなければならない不条理を描く為だったのかもしれないが、致命的に雑だなあ、と。

もう一つ、亜紀が初枝の所に転がり込んできた理由もそうだ。裕福な家で育ったけど、できのいい妹と比べられて家が嫌になった、という設定らしいが、その妹が出てくる1シーンの描写だけでは、姉が家出して、社会の底辺で、世捨て人のように生きる理由になるほどの、ずば抜けてできのいい妹には見えなかった。又、亜紀が裕福な暮らしを捨てて、世捨て人になってしまう程の、娘が一人、消息不明になっていても、捜索願も出さない程の、家庭のゆがみとか、亜紀と両親との大きな確執を、画面からどうしても感じ取れなかった。説得力がなさ過ぎると思った。

この二つの描写って結構大事だと思うのに、是枝監督の最大の魅力である"緻密でリアル”が、この二つの大事な場面で全く発揮されてないのはなぜだろう?

このご都合主義(と私が思う)がなければ、ラストの方で、一人で罪をかぶった信代が、女性警察官に、勝ち組目線で無神経な杓子定規な事を言われて涙を流すシーンや、面会にきた治と祥太に、「いいんだ、幸せだったから」と言うシーンで、気持ちよく泣けたのになぁ……

邦画の他の監督や洋画の娯楽映画なら、こういうご都合主義はざらにある。でも、是枝監督の作品で、それを見ると「あれ?」と思ってしまう。

派手な社会問題を幕の内弁当のように彩りよく詰め込む方に集中してしまい、細かい所まで目が行き届かなかったのだろうか?

でも、ご都合主義と批判するのも私くらいなのだろう、とうとうカンヌでグランプリを獲って”世界の是枝”になってしまったんだから。

メジャーになってしまった今後は、更に、娯楽作品の悪い部分に感染してしまうのか、それとも、『誰も知らない』のような地味で淡々としてリアルな作品を作った心意気を捨てないでいてくれるのか、カトリーヌ・ドヌーブジュリエット・ビノシュイーサン・ホークら、世界レベルの有名人を集めて作る次作を楽しみに待ちたい。

 

※ 初枝を演じてる樹木希林さん(75歳)は老人感がすごくリアルだった。

 他の色んな作品に出てくる老人達、余命1年の、病気を抱えたおじいさんとか認知症を抱えたおばあさんとかが、妙にこざっぱりして、顔もわりと綺麗な人ばっかりなのに、この作品の樹木希林さんは、顔もしわしわで、疲れた感じで、本当にいつ死んでも不思議じゃない、綺麗じゃないおばあさんだった。これが是枝監督の狙ってやった事なのか、希林さんが撮影時、本当にその風体だったのかは、分からないけど、希林さんって本当に凄い女優さんだと思った。 

変態が全身全霊を注いで作った映画は道徳のお手本のような作品だった。

 ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーVol.2』

『インフィニティ・ウォー』

 のネタバレがあります。

 

 

 

子どもへの性犯罪や虐待や、児童ポルノや、とにかく被害者が子どもという場合の罰則や社会的制裁がとても厳しい米国。

(にもかかわらず、ハリウッドの大物プロデューサーや製作者の中には小児性愛者が多くて、自分の子どもを子役として売り出したい親が、影で、子どもをそういう人達にさしだしていて、それは公然の秘密になっている、という話を聞いた事があるけれど)

でも、私は米国と違って、

男性小学校教師が女子児童にわいせつ行為をしても、校長がもみ消してくれれば、学校を転勤させられるだけで、何の社会的法的制裁も受けず、のうのうと先生の仕事をしてられるような日本に住んでいるので、ペドペドとジェームズ・ガン監督が、たたかれまくっても、正直、軽蔑する気になれない。

ペド:ペドフィリアの略。小児性愛

ガン監督は、言いふらしただけだけど、実際に、女子生徒に、触ったり、セクハラしても、上層部にもみ消してもらい、何のお咎めもなく仕事を続けていた男の先生を何人も知っている。

もしかしたら、ガン監督も、10年前に実際に小さな男の子にわいせつ行為していて、それを最近になって脅迫されたのを、ディズニーが口止め料を払って始末をつけた、という事が背後に隠れてるのかもしれないが、事実として耳に入ってこない以上、ガン監督を嫌いにはなれない。

もう一つ、彼を軽蔑する気になれないのは、私が『GotG』シリーズのロケットみたいな性格だからである。

彼のように人々から酷い目にあってひねくれたわけじゃない。

ロケット程の辛い経験(普通いのアライグマとして家族と平凡に暮らしてたのに、人間の科学者達の実験台にされて、人間とアライグマの合体したサイボーグにされ、普通のアライグマとして暮らす事もできなくなり、下等な生命体と呼ばれ、蔑まれて生きる事に)

なんてしていないのに、自分を負け組と思いこんで、すぐに、ひねくれたり、しょっちゅう他人の事をひがんでいる。

 

そういう世間と、そして人生と上手くやれない性分の人間だから、ガン監督が、

自分自身が持つ大きな闇をキャラクターに投影し、自分と同じ登場人物が仲間達の優しさとか、人間の良心の尊さに感化されて変わっていくドラマを見せてくれると、孤独が吹き飛ぶのだ。

 

 以前、彼の特異な作風が、どんなバックグラウンドからきているか、という記事がBuzzFeedというニュースサイトに掲載されたのを、ガン監督や俳優のマイケル・ルーカー『GotG』のヨンドゥ)のファンの方が、訳してくださった内容が、まさに、彼の性格とそれが作品にどんな相乗効果を与えているかを明確にしているので、そこから抜粋してみました。

 

 

 ガンは彼の意地悪で攻撃的なユーモアセンスに、人から全くのクソ野郎だと思われようが気にしない、というよりある意味そう思われる事を選んでいる、という解釈を与えた。彼はロケットを最新の、最もアライグマなバージョンの"ジェームズ・ガン"にしたのだと言えなくもない。
「100パーセント今まで書いた中で一番パーソナルなキャラクターだよ」まるでそのキャラクターを抱き寄せるかのように胸の前で両手を握り合わせながらガンはやさしく話した。「彼は最高に僕自身だ。それについてはあまり語る事すらできない。確実に。確実に。彼は僕なんだ」
 毛皮で覆われた人間嫌いの彼が他人と誠実で感情的な繋がりを持つ事の良さを少しずつ理解し始める中で、ガンは彼とロケットとの繋がりを『ガーディアンズ Vol.2』でなおいっそう探求した。『ガーディアンズ』のキャラクターたちが互いにシェアしている擦り切れた家族の絆は彼らが認めるよりも極めて重要であるという意識は、驚くべき深い思いやりの泉で映画全体を満たしている。「彼がまだ脚本すら書いていない段階でアイデアを投げ掛けてきた時、感動で涙が出た」とプラットは言う。

    注:プラット=クリス・プラット

 

 「のけ者で、人生で周囲となじんだ事がなかった人の気持ちがわかる」と彼は言う。「『ガーディアンズ』はそういう人に語りかけているんだ。僕にとってエンターテインメントがなしうる最高の事はそれなんだよ。それが僕がアリス・クーパージョニー・ロットンを大好きだった理由だ。僕はミズーリマンチェスターでめちゃくちゃな人たちに囲まれて暮らすクソ孤独な子供だったからね。アリス・クーパーのレコードを聴いて『わあ、この人は僕と同じくらい変なヤツだな、でも遠いところにいる』と思ってた。だけど彼は僕の孤独を和らげてくれた」

 

「ジェームズにはとても刺々しくて尖っていて変わったパンクな要素がある」とガンの友人でありマーベル・スタジオズの旅の道連れであるジョス・ウェドンは話す。「彼は本当に愉快だし作品にはとても温かみがあるが、そこには闇があるんだ」
 その闇はガンの人生のほぼすべての面について回り、時に彼の大きな悩みの種となり、たびたび彼が自ら呼び込んだ。それはまた彼の転々とするハリウッドのキャリアの燃料となり、最初にマーベルを惹きつけた映画制作の形を作る手助けにもなった。

 

出典:Hatena Blog  Koto-Koto 

   BuzzFeed          

   「マーベルを落としたmaniac」[

 

 

「RE-HIRE JAMES GUNN」の署名が、30万を超えたからと言っても、この先、万が一、100万人の署名が集まるような事があったとしても、ディズニーの決定は覆えらないだろうと言われている。せめて、ガン監督が完成させたシナリオはそのまま使って欲しいと願ってるけれど、それも難しいといくつかの記事に書かれてる。

だから、今後作られる(としたら)『GotGVol.3』が、どんなに面白くても、ガン監督の笑いじゃないし、ガン監督の人間描写じゃない、だいいち、『インフィニティ・ウォー』で、ロケット以外はこの世からいなくなっちゃってるのに、そこからどう復活させるのか?そんな状況を、あっと言わせるような展開で、なおかつ説得力もある(これが大事なのだ)話にできるのは、ビョーキと健全な人間の境目のセンスを持つジェームズ・ガンじゃないとできないだろう……

 

というわけで、愛すべきGotGVol.1はこの先、凄いお宝になるだろうと思い、見返してみた。

多くの評論家が採点しているように、 MCUシナリオライター、ニコール・パールマンとガン監督が共同脚本したVol.1の方が、起承転結がはっきりして、バランスがとれてて面白いけれど、脚本から監督まで、100%made of  James GunnのVol.2は、

過去に小児性愛やレイプ賛美の病的願望を嬉々としてさらけだしていた変態が作った映画は、

道徳のお手本のような作品だった。

 

 

 

 

 ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーVol.2』

  2017年日本公開

監督、脚本:ジェームズ・ガン(51歳)

     

 道徳のお手本のようなシーン

 

 ① 実の父親エゴにバッテリーにされて、半死半生状態になっていたスター・ロードをヨンドゥ含むガーデイアンズメンバーが助けて、そのまま逃げようとした時に、スターロードが

「エゴは宇宙を滅ぼす気だから殺さないと」

と言って、又、死闘必死の戦場にみんなで戻る。

 

②エゴのセリフ、

「生命の真の目的は他の生物と共存する事ではない。私は生命の真の目的をはたす為に全ての物を覆いつくし、最後は全ての物が私になる」

という思想とそれが、正しい事で、

「息子をその正しい方向へ導くのが父親の役目だ」

と自信たっぷりに言うエゴの選民思想の異常さ。

 

③エゴが戦いながら、スター・ロードに、

「自分を偽るのはもうよせ お前は10億に一つ、1兆に一つの存在 

永遠の命以上に意味のあるものがあるか?」

とか、言い続ける。

そして、ガーディアンズ達の作戦で、エゴが自分の星もろとも爆発してしまうと気がついた時にスター・ロードに言うセリフ、

「聞け!お前は神なんだ。私を殺せば普通の奴らと同じになる」

そう言われて返すスター・ロードのセリフ、

「それの何が悪い?」

 

④血のつながりがない赤の他人の子ども(スター・ロード)を慈しんで愛情かけて育て、その子のために命を捨てたヨンドゥと、子どもを自分の野望の道具としてしか考えない実の父親エゴ。

 

⑤スター・ロードのために自分の命を犠牲にしたヨンドゥのお葬式を宇宙船内でやってる時に、スター・ロードが言うセリフ、

「デビット・ハッセルホフみたいなクールでかっこいい父親を探し求めていたけれど、それはあんただった」

「長い間、必死に探し求めてるものってすぐそばにあるのに気づかない」

 

⑥ロケットが、世界を憎むような人生を歩んできた自分と同類だと思っていたヨンドゥに人間的成長を教えられて、過去の自分を心から反省して涙を流すラストシーン。

 

⑦30過ぎてマザコンで、最大の武器は”優しさ”なんじゃないかって思える位、頼りないリーダー。

人間に改造され、異形の者にされて、世界を憎むひねくれ者のアライグマ。

殺人兵器だった女暗殺者。

純粋で脳筋バカの大男。

可愛いけれど、犬猫のように簡単にてなずけられない植物生命体の赤ちゃん。

人種も、育った背景も全く違う生物達が互いに違いすぎる事を拒否せず、足りない所を補い合い、家族として結ばれていく多様性の理想的なありかた。

                                                                                  

 

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーVol.3』はもう、作らないで欲しい

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー

 Vol.1&Vol.2

マイティ・ソー

 シリーズ

 

のネタバレがあります。

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 幸せMaxだった時のガンプラジェームズ・ガンクリス・プラット

 

 二日前、世界を震撼させるニュースが伝わってきました。

ジェームズ・ガン監督(51歳)がガーディアンズ・オブ・ギャラクシーVol.3』の監督を降板するという。

トランプや親トランプ族の右翼的思想への批判をするガン監督を目の上のたんこぶのように思っていた右派の人々との確執がウォルトディズニーからの解雇にまで発展してしまったのです。

最近、マーク・デュプラス監督(41歳)とトランプ支持派のコメンテーター、ベン・シャピロ氏(34歳)との間に起きたいざこざに、反トランプ派のガン監督が、デュプラス監督の擁護をしようとして、シャビロ氏へのきつーい批判ツイートを投稿した事への報復として、オルタナ右翼でトランプ派のニュースサイト『The Daily Caller』の中や、同じく親トランプのコメンテーター、ジャック・ボソビエック氏によって、自身の10年前の反社会的なツイッターを掘り起こされ、公開されてしまい、その影響の大きさに危機感を覚えたウォルトディズニーの会長が、

ジェームズ・ガン監督とのこれ以後のビジネス契約は破棄する」

と宣告。つまり、ディズニーを解雇されたというわけです。ガン監督はMCU(マーベルシネマテックユニバース)のメンバー(?)なので、その親会社のディズニーから契約破棄されたら、たとえ、MCUの天才社長で、これから先のMCU作品のプロデュースをガン監督と一緒にやっていくつもりだったケヴィン・ファイギ氏(45歳)でも、どうする事もできなかったんだろうな、と思います。

その10年前投稿してた問題のツイートを見て、いくつかをのせてみました。

かなり酷い、悪くてちっとも笑えないジョークばかりですが、ガン監督はMCUガーディアンズ・オブ・ギャラクシー(以後『GotG』と略します)の監督の契約を結んだ時に、それらの愚かで反社会的なコメントについて正式に謝罪しています。

 (この報道は間違いで、不適切ツイートに関しては謝罪してないそうです。

        8/1  加筆)

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出典:James Gunn @JamesGunn

 

 

ディズニーランドキャラクターの中で誰にレイプされたら最悪か?

なんて書いた文章公開されちゃったら、ディズニーの会長としては、我が社の価値観と相いれないと思うのは当然だし、やたら、レイプ、レイプって、でてきて、思いっきり危ない社会不適合者みたいだし、小さい男の子に触って欲しい!とか、アメリカで最も社会的制裁を受ける小児性愛者みたいな事言ってるし……

でもさ、法的に、実刑を受けるような事は何もしてないんだよね、MCUしいてはディズニー作品の『アイアンマン』シリーズの主役のロバート・ダウニーJr.(53歳)みたいに薬物で1年間刑務所に入ったわけでもない。

それで、ガン監督のファンは、思っちゃうんだよ、今、10年前の不適切ツイートで彼を首にするなら、ディズニーがMCUを買収した時に、なぜ、ロバート・ダウニーJr.を首にしなかったの?って。

ただ、ガン監督は、自分が、MCUに雇われた時、メジャーになれるビックチャンスを貰った時、将来、自分の足を引っ張る可能性大なこれらのツイートを何故、消去しなかったんだんだろう?そこはネットを使いこなしきってる筈の彼にしては、理解に苦しむ愚かさを感じる。

問題ツイッターが、発覚後、1000位のツイッターを削除したそうなので、問題ツイッターが余りに多すぎて、念の為に削除しとくのが、めんどくさかったんだろうか?

最近の米国では、ツイッターは銃と同じ位、怖いって事は分かっていただろうに……

今、米国では(というより、世界的にかな)有名人によるツイッターの失態は、法的制裁と同じ位重いらしい。

ディズニーは5月に傘下のABCテレビで、人気コメディドラマの主役をしてたロザンヌ・バー(65歳)が、ツイッターで人種差別的発言をしたのを受けて、その人気ドラマを打ち切りにしちゃったそうだ、その上、彼女は所属プロダクションからも解雇されたんだと。この人はトランプ大統領の熱烈支持者だったそうだから、トランプ側の人々からしたら、今回のガン監督を追放させる作戦は、本当に報復目的があったのかもしれない。

何か、こんな事の繰り返ししてたら、ショービジネス界の人は、みんなビクビクして、品行方正で、本音は言わない人ばかりになってしまうんじゃないのだろうか?豪胆、毒舌、チョイ悪な人はいなくなっちゃうんじゃないだろうか?北野武監督みたいな面白くて魅力的な人が。

クリプラも以前、出演していたTVドラマ「パークス&レクリエーション」の内容を面白くする為に、

「かってに、パンツを脱いで画面に写ってしまい、その局の上層部の人に大目玉食らった」

って話してて、そういう所が魅力なのに、これからはそういう危ない事は絶対やってくれないだろう。

クリプラじゃなくてもやる人はいないだろう。

 

それに、過去の罪って、どこから許してもらえないの?どこまでなら許してもらえるの?

ガン監督の「昔はすごいワルでした。でも、今は改心していい人間になれるようにがんばってます」っていうのがメディアやSNSで見る彼の態度に表れてると思うのです。

そして、一番それを感じるのは『GotG』シリーズの中です。

『GotG』で、ロナンから攻撃され滅ぼされようとしているザンダー星の人々を助ける為に、「みんなで戦おう」と、仲間を説得するときのスター・ロードのセリフ

「今の俺たちは負け犬だ。色んなものを失ってきた。でも今日は失わない。今日人生はチャンスをくれた。人助けだ」

というセリフや、

『GotGVol.2』のラストで、いつも毒舌で喧嘩ごしで、仲間に迷惑かけるような盗みもしたロケットが、自分の行いや性格を反省して、仲間に謝るシーンのロケットの目から流れる涙とか。

私はガン監督にあの過去がなかったら、『GotG』シリーズがこんなに愛される作品にはならなかったと思います。

そして映画『GotG』シリーズ=ジェームズ・ガンなのです。

だから、自身が犯した致命的不注意のせいとはいえ、映画『GotG』にかかわれなくなるのは本当に悔しいだろうと思う。体の半分をもぎ取られたような気持ちなのでは?と思う。

『GotG』ファンもそうです。「Marvel:REHIRE JAMES GUNN」の署名が今、14万人を超えてます。見ていると、一秒間に2つも3つもカウントが増えていきます。

これが50万人位いったら、ディズニーも分かってくれるだろうか、

ガン監督が、自身の過去を悔い改め、変わる事の大事さを全力で投影した作品が、世界中のどれほどの人に元気を与えたか、どれほどの人の支えになっていたか、エンターテインメントを生業とする企業なら、自社のイメージの防衛よりも、まず、先にそこに目を向けるべきなんじゃないだろうか。

ちなみに、もし、私に小さな孫や子どもがいたとして、ジプリとか、ディズ二ーの作品で、子どもが見たがった映画や子どもと見たい作品があったとする。

それを作ったのが、ガン監督のような人だったら、見に行くか迷うかもしれないけど、ガン監督みたいな人がジプリやディズニーで他の作品を作っていても、自分が子どもと見たい作品には全く関わってなくて、その作品自体が、子どもにとっても、自分にとっても、素晴らしい作品なら、何も気にならず見に行って、大絶賛すると思う。

 

 

すでにガン監督による『GotGVol.3』の脚本は完成して、秋から撮影に入る予定だったそうですが、もし、その脚本も廃棄して、完全に別の『GotG』を作ろうとするなら、クリス・プラット(39歳)は出演を断って欲しい。突然大出世しちゃった後、家庭よりも、スター俳優としてのキャリアを優先した俗物のクリプラが世界のディズニーにたてつけるとは思わないけれど。

 

以下(     )内を8/1に加筆

 

  (いや、たてつきましたね。7/30発表した他キャストとの共同声明を張り付けたツイートで、はっきりと「個人的にはジェームズ・ガンの撮るGotGVol.3が観たい」と。これは、デイズニーへのソフトな非従順で、又、ペドフィリア(小児性愛者)というだけで、加害者にならなくても、強盗や殺人者と同等に扱われるらしい米国の世論や、今までの彼のファンからも大不評を買ってるようですが、社会的地位やキャリアを失う危険を承知でガン監督を支持するという"男の中の男 クリプラ"でした。すみません、私が間違ってました。クリプラ、大好きになりました更に惚れました。この件で彼のファンが減り、作品の興好成績が落ちて、ハリウッドでの今の地位を失う事があっても、私は彼を全力で応援します。日本で公開される彼の映画は十回以上観に行こうと思います。そんな事しかできないけれど)

 

今のクリプラがあるのは、ディズニーの会長のおかげではないですし。

絶妙なセンスでクリプラ=スター・ロードとひらめいて、ガン監督に彼を会わせたMCUのキャスティングディレクター、サラ・フリンと、まだ、デブで知名度も低かったクリプラをマーベルのコメディアクション映画の主役に大抜擢したガン監督と、その危ない賭けを支持してくれたケヴィン・ファイギ社長、この3人には、足を向けて寝れないでしよう、クリプラ。

 

ガン監督の弟のショーン・ガン(44歳 クラグリン役と撮影現場のロケット役)が、この人は普段から、SNSでユーモア溢れるお洒落なコメントを見せてくれるんですが、今回の騒動について、冷静に、誠実に、兄の気持ちも、そしてGotGファンの気持ちも、すべて汲んでくれてる素晴らしいコメントを投稿しています。

泣きそうになってしまう素晴らしいコメントです。

 

「僕が兄のジェームズを愛し、支持していることは言うまでもありませんよね。彼は友人であれ家族であれ仕事仲間であれ、ファンであれ、赤の他人に対しても親切で、寛大で、思いやりを持っている。僕はそんなところが誇らしい。

子供の頃から、彼は将来アーティストとなり、ストーリーを語り、コミックや映画、バンドを通じて自分の声を届けたいという情熱がありました(きっと運命でした)。その声を届けることに、時には不器用で、間違っていて、バカをやってしまって苦しむこともありました。時には、ワンダフルで、感動的で、陽気なこともありました。

彼が自分の全人生を映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』とMCUに費やすようになったのが6年前。映画の仕事を通じて、人にショックを与えるような人間がどんどん変わっていくのを、僕は見ていました。

僕は、大衆に向けて”角が取れて丸くなる”ことを懸念していた彼が変わっていくのを直接見ていました。”角”って、思っていたほど便利なものじゃなかったんだと気付いていったのです。こうして彼のストーリーテリングは、より良くなっていきました。僕は、不快で攻撃的なジョークで人を怒らせてばかりだった男が、心を開いていく様を見ていました。

多くの点で、彼に訪れた変化は、ガーディアンズに訪れた変化として反映されました。彼は、よくこう言っていました。ピーター・クイルがチームのみんなを”これは俺たちがやってのけるチャンスだ”と鼓舞するのは、自分自身に言い聞かせていたんだよ、って。

これは、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のキャストたちが報われる経験のひとつでした。僕も含めてね。僕達は、大予算のスーパーヒーロー映画に加わっていましたが、あの映画の真髄は極めてパーソナルなものでした。授かり物のようでした。それこそ、あの映画が素晴らしい理由です。

まぁ、これは新しい情報ではないですね。ジェームズがこれまで何度も、インタビューでもっと詳しく雄弁に答えていたことです。新たな解釈ではないですね。常に物語の中にあったものです。

僕は、ファンの皆さんにはこれからも『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を観て、楽しんでいただきたいと思います。製作者がかつて馬鹿野郎だったということは事実ですし、その事実を理由として。どこまでいってもこの映画は、自分自身の長所を見出す物語なのです。

この映画を通じて、兄はより良い人間に成長しました。僕自身も成長させてくれました。それが誇りです。」

出典:THE RIVER 

 

 

それにしても、ガン監督が作らない『GotGVol.3』はどうなってしまうんだろう?

脚本を新しく別の人に書かせて、監督には、マイティ・ソーシリーズのコメディ路線変更を大成功させ、MCUファミリーの一員になったタイカ・ワイティティ(42歳)あたりを引っ張ってくる、なんてなったら、最悪です。私は許さない。……こういう事言う人に対してジェームズ・ガンが言ったんですよね

「映画は君の所有物じゃない、嫌なら見るな!」

って。スター・ウォーズ/最後のジェダイ(2017年日本公開)に文句を言う過激なスターウォーズファンに対するこのツイートを読んだ時、何という正論!と拍手したくなったけど、まさか、それが自分に帰ってくるとは……

でもさ、『GotG』シリーズが他のアクションコメディと違うのは、面白いだけじゃなくて、感動させてくれる所で、ワイティティ監督は、面白い作品は作るだろうが、ガン監督のように面白くて、かつ感動させてくれる作品を作れるとは思わない。

何故ならワイティティ監督が撮ったマイティ・ソー バトルロイヤル』(2017年日本公開 脚本:エリック・ピアソン)はソーシリーズの3作目だから、劇中のキャラクターは前2作とつながってなければならないはずなのに、ソーの人生を変えた運命の女性、ジェーンが出てきません。ソーが王位継承権を捨ててまで、愛を貫こうとした女性。、、その人との物語は、ソーというキャラクターの誠実さを表す大事な部分なのにその人が出てこない。出てこない理由が、「別れた」という一言のセリフ でかたずけられています。別れた理由も何も説明されません。ソーが彼女の事を考えたり、思い出して感傷的になっているシーンも全くありません。

脚本家がそう書いたからって、又は、ジェーン役のナタリー・ポートマン(37歳)がスケジュールの都合で出れなかったからって、監督としては、それを、そのままよし!としてはダメでしょう。

ワイティティ監督って1作目、2作目ちゃんと見たんだろうか?と。

1作目から観続けているファンから見たら、この人、面白さだけ追及して、キャラクターへの愛情が全くないと、思われても仕方ないと思います。

ガン監督は『GotG Vol.2』を作るにあたって、一番大事にした事は

「キャラクターの気持ちを丁寧に表現する事」

と言ってました。

だから、私は、この人の作る作品は、ただ、面白いだけでなく、観終わった後、いつまでも心に残るんだと思います。

『GotGVol.1』でのピーター・クイル(スター・ロード)と最強女暗殺者ガモーラの関係性も、最初は、ピーターの事を、「クイル」と苗字で呼んでたガモーラが、辛苦を共にした後、ピーターを信頼し、友情で結ばれた仲になると、「ピーター」と名前で呼ぶようになります。Vol.2では、更に友情が愛情に変わっていく様子を、自然に、全く違和感もご都合主義もない流れで描いてます。

ピーターと義父ヨンドゥとの間柄もそうです。

Vol.1の時から、ヨンドゥがいかにピーターの事を愛してるか、可愛がってるか、をちゃんと見せてくれてます。だから、Vol.2でヨンドゥが、ピーターの為に自分の命を捨てた事に、違和感なくボロボロ泣けるのです。

 

『GotG』シリーズで唯一、キャラクターをご都合主義で描いてる場面。

Vol.1のラスト近くの悪役ロナンとスター・ロードのダンスバトル。まずパワーストーンをつけているロナンが触れただけで、ザンダー星の動植物はすべて消滅するとスター・ロードが説明してたのに、ロナンがザンダー星に降り立っても、人々はみんな生きていた。この時点で、脚本が破綻していると思うのだが、更にその生きている人々が遠まきで見ている中で、スター・ロードがロナンにダンスバトルを仕掛けるのだ。そのあまりにくだらない言動のせいで、ロナンが茫然としている隙にロケットが用意した武器でロナンを撃っちゃうという場面。

冷酷で無敵なはずのロナンが急にすごいお人よしに変わってしまった、大ご都合主義の、一歩間違えると、すべって大失敗になってしまう場面でしたが、クリプラとロナン役のリー・ペイス(39歳)のコメディセンスで、見事なオフビートコメディシーンになった為、ご都合主義を凌駕していました。

この、ドラマ部分は丁寧に、笑わせる部分は徹底的にくだらなく、というさじ加減。これが、GotGの、そして、ガン監督の真骨頂であり、それは、コメディー畑の、他の監督にはまねできない事だと思います。

もし、ガン監督抜きで、『GotGVol.3 』が作られて、面白いだけで、感動できない物になっちゃったら、嫌なので、そうならないようにVol.3はもう、作らないで欲しい。

みんなに愛されてるVol.1Vol.2だけでいい。有終の美を飾って終わりにして欲しい。

「映画は君の所有物じゃない、嫌なら見るな!」

と言われたら、一言も返す言葉がないけれど。 

 

 

優等生映画『ドリーム』に感じた違和感

『ドリーム』及びシェイムレス』のネタばれあります。


このブログは、負け犬のおばさんのひがみとか泣き言を綴るブログに化してしまった感満載なので、今回も負け組側から感じるHAPPY SUCCESS大団円映画に感じる不自然さについて、主張したいと思います。

『ドリーム』(2017年日本公開)

監督:セオドア・メルフィ
脚本:アリソン・シュローダー
   セオドア・メルフィ
キャサリン:米国初の有人宇宙飛行計画の成功に多大の貢献をした。白人、黒人、インデアンの混血児
   タラジ・P・ヘンソン   
ドロシー:NACA(NASAの前身)で黒人女性で初めてスーパーバイザーになった。
   オクタヴィア・スペンサー 
メアリー:NASAで黒人、女性で初めてエンジニアになった。
   ジャネール・モネイ 

映画『ドリーム』予告A

あらすじ

1961年のバージニア州ハンプトン。アメリカ南部において、依然として白人と有色人種の分離政策が行われていた時代。優秀な黒人女性のキャサリンは、同僚のドロシーとメアリーと共にアメリカ南東部のラングレー研究所で計算手として働いていた。

ソ連人工衛星打ち上げ成功を受けて、アメリカ国内では有人宇宙船計画へのプレッシャーが強まっていた。そんな中、キャサリンは上司のミッチェルからスペース・タスク・グループ(英語版)での作業を命じられた。図らずも、キャサリンはグループ初の黒人でしかも女性スタッフとなったのだが、劣悪な環境に苦しめられることとなった。

キャサリンに対する同僚の反応は酷いもので、エンジニアを総括するポールに至っては露骨に嫌な顔をし、機密であるとしてキャサリンに黒塗りの資料しか渡さなかった。計算部の代理スーパーバイザーであるドロシーは、事実上の管理職として自身の昇進を願い出ていたが、白人女性のミッチェルに前例がないという理由で断られていた。

また、メアリーは実験用の宇宙カプセルの耐熱壁に欠陥があることに気がついていたが、上司からのエンジニアへ転身する勧めを「女で黒人でエンジニアになることはできない」として諦めかけていた。エンジニアへの転身には、学位が必要だったが、そのためには白人専用の高校に通わねばならなかった。

ついに「マーキュリー・セブン」がラングレーに異動してくる。黒人たちは彼らに接触できないよう、歓迎の場も分けられていたが、ジョン・グレンは彼女たちに親しく接し、感謝を述べた。

キャサリンは黒塗りの資料にも関わらず、正確な解答を導き出し、やがて上司であるハリソンも彼女の能力を認める。メアリーはついに裁判所に訴えを起こし、通学の権利を勝ち取る。そしてドロシーは、最新型コンピューターIBMの導入を見、計算手が解雇されることを見越して、自らコンピューター工学を学び、黒人女性計算手達に教える。

ソ連との宇宙開発競争の中、ついに1961年4月12日、ソ連ガガーリン少佐はボストーク1号で有人宇宙飛行に成功する。マーキュリー計画の続行も危ぶまれるが、5月15日、ジョン・F・ケネディ大統領は月面着陸を目指すと表明する。計画の続行に関係者は安堵するが、スペース・タスク・グループの仕事も多忙を極めていく。

そんなある日、キャサリンが席を外したことをハリソンは叱責する。キャサリンは、自分が800m離れた有色人種用トイレに共用自転車を使えず徒歩で往復しなければならないこと、職場の服装規則である真珠のネックレスを買えるほどの給与を得ている黒人女性がいないこと、珈琲ポットさえも人種分けされ、のけ者にされていることを逆に大声で訴える。せめて日に数度、席を外すことは許して欲しいと。ハリソンは程なく、「有色人種用」のコーヒポットや看板を無くし、NASAから人種差別を撤廃させようとする。

キャサリンは、やがて重要な会議にも出席し、席上で見事な計算をして落下位置を予測してみせ、その能力でグレン達宇宙飛行士の信頼を勝ち取る。そしてジムと再婚し、ハリソンから真珠のネックレスを贈られる。一方、ドロシーは予想通り、コンピューター技術者として引き抜かれるが、他の女性計算手も一緒でなければ応じないと強硬姿勢を見せる。しかし彼女達しかIBMを使いこなせず、その要求は認められただけでなく、白人女性たちも彼女に教えを請いに来た。メアリーの通学に反対していた夫も、やがて彼女の努力を認め応援するようになる。

1962年2月20日、ついにアメリカはマーキュリー・アトラス6号打ち上げの日を迎える。グレンはコンピューターの計算に不安を感じ、キャサリンの検算を要求する。検算の結果、無事に打ち上げられ、落下位置も計算通りだった。

エピローグで、ドロシー、メアリー、そしてキャサリンのその後の活躍が紹介される。


出典:ウィキペディア




私は人が言った事とか、やった事をよく覚えていて、それを基に、この人は、こういう性格なんだろうな……
と独断で類推して楽しむ癖があります。
で、以外とそれが当たってる事が多いので、ますます人間:ウォッチングに傾倒してしまったのですが、数字、機械に人並み外れて強いとか、物理学が大好きとかいう方には、にじみ出るような情の深さを感じない、女性だと、あまり、母性を感じない人が多い気がします。(100%独断です)
決して女らしくない、とか、優しくない、とかではないです。

でも、"母性"というか、清濁合わせて呑みこめるような部分、理屈や理性とは、真反対の感性は感じられないのです。
例えば保育師とか幼稚園教諭、カウンセラーみたいな職業、相手の心に寄り添い、見守り、良い所も悪い所も受け入れるという技能が必要な職業の方々には、理系脳の人はいないと思います。答は一つしかない、と言うのが好きな人には、耐え難い仕事だから。
(もし、自分は完全理系だけど、そういう職業だよ、という方がいらっしゃいましたら、ブログの1番下のコメント欄に何でもいいので言いたい事書いて下さい)

主人公、キャサリンと3人の娘との寝室でのやり取り。
残業して遅く帰って来たキャサリンが、娘達がもう寝てる筈の寝室に行くと、二つしかないベッドの上で3人が喧嘩しています。
次女と三女が、
「長女だけ1人で一つのベッドで寝て、自分達は、2人で一つのベッドなんて、ズルい」
と文句を言い、争ってるのです。
キャサリンは、子どもを頭ごなしに叱りつけたり、無理やり喧嘩をやめるように命令はしません。
彼女が、次女と三女に、
「長女みたいに、皿洗いやゴミ出しを手伝ってくれるなら、1人一つのベッドで寝ていいわよ」
と言うと、次女と三女は、即座に納得して、2人で一つのベッドに横たわります。この行動も、7年間、子ども相手の仕事をしてた私からすると、子どもらしくない妙に物分かりが良すぎる行動に感じますが、キャサリンの、その機転のきいたセリフは、ベテラン保育士が子どもを扱う時に使う様な、本当に100点満点の接し方だと思いました。
その後も、
「ママは宇宙飛行士になるの?」
と聞かれ、
「違う」
と答えると、三女が
「ママは宇宙飛行士になって宇宙に行ける」
と言いながら、キャサリンがロケットの中で宇宙飛行士になってる絵を差し出します。キャサリンはそれを嬉しそうに(なふりをして)受け取り、「ありがとう」とか「愛してる」とか言って、他の二人にも同じアメリカ式のおやすみの儀式をして寝かしつけます。
移動したばかりの、なれない、そして周囲は敵ばかりの職場で、遅くまで残業してきて、子どもにこんな100点満点の対応ができる女性って、この世にどれぐらいいるでしょうか?保育士のお母さんだってできないかもしれない……しかも彼女の場合、普通の女性でも、ただのリケジョでもないのです。何百人に一人というレベルの数学の天才なのです。
そこまでの天才で、社交的で誰にでも優しくて、子どもの扱いも保育士並みに上手な女性ってありえますか?実生活では勿論、映画やTVドラマ等のフィクションの世界でも見た事ないです。
TVドラマケイゾク(1991年、TBS系金曜ドラマ)のヒロインは、身なりにかまわない理系オタクだし、『SPEC』(2010年~ TBS系ドラマ)のヒロインも、協調性ゼロの非常識人で、天才ってやっぱ”どこか欠いてる”のが、お約束ってのが多いし、又、そういうキャラクターゆえに魅力的なんじゃないでしょうか?
又、この作品の肝である1961年当時の米国内での黒人差別についても、
作品中では、人種差別を強調する為に、NASAの敷地内で、白人と黒人はトイレが別だったと、フィクションされ、キャサリンが遠くのトイレまで行かないとならず、とても苦労させられたという話になってますが、ネットで調べたら、実際には、1958年に差別トイレは撤廃されていたそうです。ただ、それでも、黒人と白人が別のトイレを使う事が暗黙の了解になっていたそうですが、キャサリンはそれを無視して、白人が使うトイレを堂々と使っていたそうです。

又、作品中では、ドロシーは有人宇宙飛行が成功した1962年にやっと、黒人として初めてスーパーバイザーになった事になっていますが、実際には、1949年にはスーパーバイザーになっていたそうです。
シェイプ・オブ・ウォーター(2018年日本公開)では、有色人種は米国国民じゃないと規定され、人間扱いされていなかった為に、政府の秘密研究所で清掃員をしてました。そんな非化学的、非合理的な差別社会の時代に、黒人女性がスーパーバイザーになれるNASAの、科学的に先端だっただけでなく思想的にも合理的でリベラルだったという部分、そして、キャサリンの、非合理的な慣習を無視して堂々と行動する勇気と先進性を描く事の方が黒人差別を描くよりずっと大事ではないか、と感じました。

黒人て、差別されててかわいそうだったんだなぁ、という安っぽい感傷より、時代の先端を行く人々の、
「精神的にも偉大だった部分」
を見せてもらった方が感動が深くなったと思います。

第89回アカデミー賞の作品賞、助演女優賞、脚色賞にノミネートされ、米国の大手批評サイト、Rotten TomatoesのTOMATO METER(プロ批評家の評価枠)と、AUDIENCE SCORE(一般人の評価枠)…両方が93%の高評価で、日本でも大勢の方が2017年のBESTと称賛する作品。
人種差別や女性蔑視と戦い、科学の分野で偉業をなしとげた3人の女性の、普通に考えたら、感動必至な作品。
でも、その女性達が、数学において、突出した才能がある為に、それとひきかえに、対人コミュニケーションに難あり、とか、頭が良すぎる為に普通の人と違う事をしてしまい、誤解されて苦労する等の陰の部分は全くなく、一生懸命仕事してたら、順調にいって成功しました、という明るくて綺麗な話だけで終わってしまっているので、負け組のおばさんには、カタルシスも、涙がこぼれる程の感動もなく、観終わったらすぐに忘れられそうな作品でした。

伝えたい事が違うからなんでしょうか、ビューティフル・マインド(2002年日本公開)(これも、実在の偉人の話で、都合の悪い事は隠してはいるのですが)や『グッド・ウイル・ハンティング/旅立ち』(1998年日本公開)のような存在感はありませんでした。


シェイムレス 俺たちに恥はない』


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今、WOWOWで、シーズン7を放映中の米国ドラマシェイムレス』にも、天才が出てきます。
シカゴのサウスサイド、低所得者の町で、育児放棄、無職、クスリや酒びたりの両親に育てられ(育ててないが)掃きだめの中で、悪知恵と家族愛&友情、そして人間としての良心を武器に、逞しく生き抜いているギャラガー兄弟。
その長男フィリップ(演じるのはジェレミー・アレン・ホワイト 27歳。 写真の向かって左から4番目の人)はろくに勉強できない環境にいるのに、いたれりつくせりの教育を受けている上流家庭の坊ちゃん、嬢ちゃんに軽く勝ってしまう頭を授かった天才タイプです。兄弟や地域の期待を背負って奨学生待遇で入った大学で、(この人、背も高くなく、とびぬけてイケメンじゃないのに何故かもてる)熟女教授と学内でメイクラブしてるとこを見つかり、厳重注意されたのに、掃きだめで育ったせいか、グズ人間の父親の遺伝なのか、その後も大人しくなるわけもなく次はアルコール中毒による暴力ざたを起こして、とうとう退学になります。でも、彼の事を「掃きだめで終わるのはもったいない」と、買ってくれてた別の教授の世話で、アルコール矯正施設に入り、依存症を克服した後、その教授の働きかけで、大学の諮問会を開いてもらい、復学できるか、協議してもらいます。
が、結果は本人や教授の予想に反して、復学は不可、一度復学を期待してしまったフィリップは大きく気落ちして、又荒れた生活に戻ってしまいます。
というわけで、人生に、劇的な、道徳的な解決はない、というダルデンヌ兄弟是枝裕和監督風のストーリーがこれでもか、とテンコ盛りに続いていきます。
やっぱ、私ってそういう作風が好きなんだなあ……と改めて思いました。
ちなみに邦題が「センス悪い」と評判が良くない、この『ドリーム』(これは作品の制作スタッフのせいではなく、原題の『Hidden Figures』をこの題名に変えて公開した20世紀フォックスが悪いんですが)に比べて、ダルデンヌ兄弟『ある子供』(2005年日本公開)とか、是枝監督の『誰も知らない』(2004年公開)やそして父になる(2013年公開)は、ほんとにいい題だなあ、といつも思います。媚を売らないドキュメンタリー寄りのクリエーター達のセンスって粋です。