映画についてのよけいな事 

練りきり作りましょう!

また、世間で絶賛されている作品にケチをつける 『万引き家族』

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万引き家族』『誰も知らない』

そして父になるのネタバレがあります。

 

 この記事には、

仕事は嫌だけど、家族を食べさせるために、毎日一生懸命働いてる男の方。

人の悪口は言わない、聞きたくない人。

心の美しい人。

とにかく前向きで強い人。


が、読むと不快になるかもしれない内容があります。

そういう方はお読みにならないで下さい。

せっかくアクセスしてくださったのに、申し訳ありません。




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 万引き家族

(2018年6月公開)

 原案、脚本、監督、編集:是枝裕和(56歳)

 

あらすじ

高層マンションの谷間にポツンと取り残された今にも壊れそうな平屋に、治と信代の夫婦、息子の祥太、信代の妹の亜紀の4人が転がり込んで暮らしている。彼らの目当ては、この家の持ち主である初枝の年金だ。足りない生活費は、万引きで稼いでいた。社会という海の底を這うような家族だが、なぜかいつも笑いが絶えず、互いに口は悪いが仲よく暮らしていた。 冬のある日、近隣の団地の廊下で震えていた幼い女の子を、見かねた治…

 出典:Filmarks

 

 

 

私は子どもが好きです。

なのに、病気等、運命の巡り合わせで、息子一人しか持てず、その彼も都会で完全自立してしまい、金の切れ目が縁の切れ目となり、実家へ来るのは、年2,3日、必要事項のみ会話してすぐきれる電話も年に10回以下という、ほぼ赤の他人状態です。

子ども嫌いなとこも含めて、性格、価値観、食べ物の好み、ほとんどの要素が正反対な主人(なら、なんで、結婚したんだ?と聞かれれば、結婚前はお互い本性を隠してたり、女の私が経済的安定を優先して妥協してしまったからとか、私達の世代ではよくある理由です)と広い家で仲良くもなく、楽しい会話もなく淋しく暮らしてます。

ただ、保守的で、子どもって可愛いより面倒くさいと思っている主人は全然淋しくないようで、私が、

「淋しいから里親になりたい、夏休みとか冬休みだけ預かる週末里親でいいから、その期間も子どもの世話は全部私がやるから、そして、それでもらった謝礼は全部あげる、だから、夫婦として、里親面接や里親講習に一緒に参加してほしい」

と頼んだ時も、

「絶対にヤダ!」

と、とりつくしまもない。まあ、普通の日本人は皆こういう考え方なんでしょうが、自分達の子どもでさえ、「大学行かせる金が大変だから、二人目は欲しくない」と言った人ですからねぇ。

仕事(と出世)は順調で、平日昼間は、会社で勝ち組気分を存分に味わい、夜と土、日は、100%自分の思い通りにできる事、プラモ作りとオートバイと、その分野の情報のYou Tubeを見て過ごすという、今、人生で一番幸せな時が来たと思って生きているような主人。

今は我が世の春だけど、定年になり、会社から放り出されたら、自分の周りの同年代は、孫や子どもが家に 出入りする明るい老後を送っている年寄りばかりなのに、自分は孫もいない、子どももいない(も同然)淋しい、可哀そうな老人になるんだ、なんて1秒も考えた事ないんだろうなぁ。

そう言えば、うちの旦那、そして父になる(2013年公開)のあの鼻持ちならないエリートの父親(福山雅治さん演じる)に似てるなぁ……顔じゃなくて中味が。

リリー・フランキーさん演じるもう一人の父親=経営不振の電気屋の店主で、出世や裕福さみたいな”成功”とは程遠いけど、人情があって、子煩悩な、あーいうタイプとどうして結婚しなかったんだろうなぁ……

是枝監督って、この万引き家族が脚光を浴びて、”福祉の網からこぼれ落ちた人を見殺しにする社会への怒り”を作品にする社会派監督みたいに言われてるけど、私は個人的には、この人は、勝ち組が嫌いで、圧倒的に負け組が好きでその味方をしたくて映画を作っているように感じる。

そして父になるでも、海よりもまだ深く(2016年)でも、勝ち組の男と負け組の男が出てきて、双方を対比させるんだが、まあ、勝ち組の男は、ほんとに感じが悪い。

で、そして父になるでは、今まで、何にたいしても、負けた事のない裕福なエリートとうさんが、つぶれそうな電気屋の店主の貧乏とうさんに負ける…完敗する。子どもに愛されるという項目で。貧乏だけど温かい父親に育てられた男の子は、血がつながってて裕福な父親より、貧乏な父親を選ぶのだ。こんなに気分のいい展開はない!


そんな風に思う

私が、この凄くあったかそうな”万引き家族”という疑似家族に憧れないわけがない。

治や信代が初枝と暮らしてるのは、初枝の年金がないと暮らせないからだけど、でも、彼らと初枝、二人の子どもとの絆はお金だけではない、彼らは価値観が同じだ。そういう相手とは簡単に心がつながれる。 

そして、血のつながりよりも心のつながりの方が強いに決まってるのである、

血を分け、手をかけて育てた息子と私とのきずなは、ああも簡単になくなってしまったのだから。

樹木希林さん演じる柴田初枝もそうだ。息子が二人もいても、縁が切れてしまってる。

でも、幸運にも赤の他人達と肩寄せあって暮らせて、全然淋しくない老後を送り、血のつながりのない家族に囲まれて死ねた。

うらやましくて仕方がない。

私も、その気になれば、同じ事ができるだろうか?

ああなるにはどうすればいいんだろうか?

ネットで子どもや孫が買えたらいいのに、せめてレンタルできたらなぁと本気で思う。

それなのに、あの暮らしに違和感を感じるのはどうしてだろう?

確かに、赤の他人同士でも、家族のように暮らせば淋しくないし、淋しくない事=幸福なんだろう、でも、その生活が不健康な生活だったら?

又、心でつながる家族がいる幸せと引き換えに、いつ刑務所に入るか分からないような不安を抱え、明るい未来を想像できない生き方をしなきゃならないとしたら?

血のつながりなんてなくていい、本当に自分を必要としてくれる人と生きたい、と思ってる私でさえ、思うのだから、普通の日本人はもっと理解できないというか、共感できないのでは?と思う。

特に、虐待されてた子どもを勝手に連れてきて育てている事に。

虐待されてた祥太やりんを連れてきて自分の子どものように育ててる事はむしろ人助けである。なのに、法治国家では、それが誘拐という犯罪と定義されてしまう不条理。

こういう不条理が、又、是枝監督の好きなネタなんだろうなぁ……

と、彼の大ファンでもなく、フイルモグラフィ全部を観てるわけでもないのに、知ったかぶりして言いたくなってしまう。

初めて観た彼の作品が『誰も知らない』(2004年公開)という不条理の極みのような映画だったから だろうか。

12歳の長男を筆頭に、4人の子どもを次々と産んだ女。でも、子ども達より、新しい男との愛を楽しむ方が大事で、アパートに4人を置き去りにして、消えた。

こんな勝手で母性本能ゼロで、「育てられないから中絶しよう」と考える事もできない未熟な子どもが、子宮だけは大人で、健康で、次から次へと妊娠し、簡単に出産できてしまうという不条理から始まる物語。

万引き家族には、是枝監督が20代で、ドキュメンタリー監督として映像作家になったときから持ち続けている”福祉の網からこぼれ落ちた人を見殺しにする社会”への義憤が強く主張されてるという意見には全く同意だけど、

でも、同時進行で見せる弱者の種類が多すぎて、一つ一つが、あまり胸に刺さらない。

ネグレクトという虐待の被害にあっている子ども達を、淡々と、静謐に描いていた

『誰も知らない』の方が深く痛く胸に刺さった。子どもが一人死んでしまうという最悪の結末があったからかもしれないけど。

私は是枝監督の、ドキュメンタリーっぽくて寡黙でリアルな所、登場人物を鋭く風刺するところが大好きで、福山雅治さん演じるそして父になるのエリ-トサラリーマンや、『三度目の殺人』(2017年公開)の人間としての感情より、いかに裁判で勝つか(減刑を勝ち取るか)だけで動くエリート弁護士等の”勝ち組”達の鼻持ちならなさと、本作の柴田治(リリー・フランキーさん)や海よりもまだ深くの篠田良多(阿部寛さん)の”負け組”達のダメダメさ、情けなさが、本当に鮮やかで、いつも楽しませてもらってる。

でも、この万引き家族に関しては、いつものリアル描写より、ご都合主義な所の方が目立ってる気がした。

例えば、祥太が、万引きした後、警備員達に追われて逃走中、足を怪我して病院に運ばれた為、警察に、この万引き家族の色々な悪事がばれてしまい、信代が一人で全ての罪をかぶって服役、治は安アパートで独り暮らし、祥太は擁護施設に引き取られ、りんは実親へ返されるのだが、映画の前半で、虐待されていたりんを信代達が勝手につれてきてしまった後、2カ月たってもりんの捜索願を出さなかった父親と母親が、虐待してるのではないか、と警察や児童相談所に疑われてTVのニュース(だかワイドショーだか)に出ているシーンがあったのに、いざ、りんが見つかったら、児童相談所は、りんを、簡単に二人の元に返し、それを受けて、二人の親に取材しているマスコミの人達も、虐待の疑いのあった夫婦という扱いは全くなく、祝福ムード一辺倒で、

「良かったですねぇ」

みたいな反応とか、

「帰ってきたじゅり(りんの本名)ちゃんが最初に食べたのは何ですか?」

と尋ね、実母が

「オムライスです」

と答えると、

「それはお母さんの手作りですか?」

実母

「はい」

と、虐待の疑いのあった夫婦が、子どもを連れ去られた悲劇の親という扱いに変わってしまっている。

りんの失踪が警察や児相に露見してしまった時に、虐待が疑われたのだから、児相が色々調べて近所の人の証言等からも「虐待のおそれのある夫婦」だとわかっただろうに、児童相談所が子どもを穏便に返しちゃった事はとても不自然である。

マスコミのレポーターの誰かが、あの場面で、

「ジュリちゃんが連れ去られた後、2カ月も捜索願を出さなかった事で、虐待の疑いをかけられていた事について、どう思いますか?」

と聞くとか、

児童相談所が一生懸命、介入したが、それでも、実親の虐待の決定的証拠が見つけられなかった、それで保護できないから、仕方なくりんを実親の所へ返したとかの描写があれば、自然だったし、そういう児童相談所の権限のなさや虐待を取り締まる法律や制度の甘さこそ、社会で問題になってる事なのに。

何故、こんなunrealな展開にしたのかなあ……りんが、他人同士でも心から慕っていた万引き家族と引き離されて、血がつながってても虐待してる両親と暮らさなければならない不条理を描く為だったのかもしれないが、致命的に雑だなあ、と。

もう一つ、亜紀が初枝の所に転がり込んできた理由もそうだ。裕福な家で育ったけど、できのいい妹と比べられて家が嫌になった、という設定らしいが、その妹が出てくる1シーンの描写だけでは、姉が家出して、社会の底辺で、世捨て人のように生きる理由になるほどの、ずば抜けてできのいい妹には見えなかった。又、亜紀が裕福な暮らしを捨てて、世捨て人になってしまう程の、娘が一人、消息不明になっていても、捜索願も出さない程の、家庭のゆがみとか、亜紀と両親との大きな確執を、画面からどうしても感じ取れなかった。説得力がなさ過ぎると思った。

この二つの描写って結構大事だと思うのに、是枝監督の最大の魅力である"緻密でリアル”が、この二つの大事な場面で全く発揮されてないのはなぜだろう?

このご都合主義(と私が思う)がなければ、ラストの方で、一人で罪をかぶった信代が、女性警察官に、勝ち組目線で無神経な杓子定規な事を言われて涙を流すシーンや、面会にきた治と祥太に、「いいんだ、幸せだったから」と言うシーンで、気持ちよく泣けたのになぁ……

邦画の他の監督や洋画の娯楽映画なら、こういうご都合主義はざらにある。でも、是枝監督の作品で、それを見ると「あれ?」と思ってしまう。

派手な社会問題を幕の内弁当のように彩りよく詰め込む方に集中してしまい、細かい所まで目が行き届かなかったのだろうか?

でも、ご都合主義と批判するのも私くらいなのだろう、とうとうカンヌでグランプリを獲って”世界の是枝”になってしまったんだから。

メジャーになってしまった今後は、更に、娯楽作品の悪い部分に感染してしまうのか、それとも、『誰も知らない』のような地味で淡々としてリアルな作品を作った心意気を捨てないでいてくれるのか、カトリーヌ・ドヌーブジュリエット・ビノシュイーサン・ホークら、世界レベルの有名人を集めて作る次作を楽しみに待ちたい。

 

※ 初枝を演じてる樹木希林さん(75歳)は老人感がすごくリアルだった。

 他の色んな作品に出てくる老人達、余命1年の、病気を抱えたおじいさんとか認知症を抱えたおばあさんとかが、妙にこざっぱりして、顔もわりと綺麗な人ばっかりなのに、この作品の樹木希林さんは、顔もしわしわで、疲れた感じで、本当にいつ死んでも不思議じゃない、綺麗じゃないおばあさんだった。これが是枝監督の狙ってやった事なのか、希林さんが撮影時、本当にその風体だったのかは、分からないけど、希林さんって本当に凄い女優さんだと思った。